傲慢さを自覚できているかどうか

 イギリスで自爆テロがあり多くの死傷者がでている。NHKニュースでは「対策に限界か」とまで見出しをつけていた。現地に与えた衝撃はかなりなものなのだろう。これを踏まえて、また「極右」勢力は気勢を上げるとされるだろうし、テロには屈しないと言いつつも分断はしないと宣言する「リベラル」勢力もまた危機感を感じることだろうな、と思う。

 これはそういった左右の話とはまったく別の次元のことだが、世の中そうそう虫の良い話というものはないのだな、と感じる。理想的な世界というのは、様々な人種、国籍の人間が差別なしで平和に暮らし、お互いの文化と権利を尊重し、といったことだ。

 しかし、人間誰しも善悪の側面があり、いいとこ取りなどなかなかできないものだ。イスラム圏の人々を受け入れ、労働力として確保し、また人権を尊重する先進国としての対面を保つ。そうしたプラスの部分を欲したからには、テロの危険にさらされる、雇用を失うというリスクも一緒に背負い込む。これは美味しいものを食べると太るようなもので、野放図にする訳にはいかないが、ゼロにはできない、仕方のないものだとして受け入れるしかないのかもしれない。それでも理想を追求しムスリムの人々をどんどん受け入れましょう、とするか、さまざまなメリットを蹴飛ばして移民排斥に動こうとするか。いずれもリスクとリターンがあり、結局それらを切り離すようなことはできないものなのだ。

 リベラルとされる方々の話がなかなか受け入れられないのは、こうした等価交換の法則のようなものを無視することがその前提になっているからなのだろう。移民難民はどんどん受け入れる。他用な文化を尊重する。しかし自国の文化がベースであり、これらが犯罪などの温床になることはない。おそらくそんな世界は実現不可能だ、と判断した人が離れていく。

 少し不思議に感じるのは、リベラルとされる方々は自身の傲慢さというものを自覚しているのだろうか、というところだ。他国あるいは他の宗教を持って自国に流れ込んでくる人たちが、当然民主主義と平和、人権の尊重を求めているに決まっており、強制・教育などせずともそうなることが当然、という傲慢さ。

 私は自分が保守派なのか、ファシストなのかもはやよく分からないが、「ここは自分の国だから、この国に倣って過ごせないなら来ないでほしい」というのは、とてもシンプルなコミュニティを構成する人間の素直な気持ちになりえると思っている。来たい、というなら倣ってほしいし、それができないなら自国にとどまるほうがあなたには向いていますよ、ということだ。

 そのような単純な事情ではない人がいることもわかってはいる。命からがら逃げてくる人に自国の文化を強制し、守れないなら追い出すのか、と。しかし、民主主義や人権を「強制する」という意味では結局リベラルも保守も同じようなものではないか。自国にイスラム国家を作ってください国土の半分あげますよ、というのならまた別だが。

 つまりそれぞれに自国の都合を押し付けるという点では同じだと思う。が、そのことをまったくないものとして振る舞うリベラルとされる方々の意見は、やはり私には素直に染み込んでこない。実現性のない、薄っぺらい偽善の理論としてしか、目に映らないのだ。