ゴミ拾いで得るもの

気まぐれにゴミ拾いをしている。駅から会社までのお決まりの経路で、本当に気が向いて、このくらいならいいかと思ったとき(月に1回あるかないか)に少しだけ。ペットボトル一つとか、たばこの空き箱とかそんな程度のことで、別に環境美化につながるということもない。完全な自己満足でやっている。

 

そんなことでも、やろうとなると準備はいる。結局今は、ダイソーの安い使い捨て手袋と、スーパーでロールになってるポリ袋の余ったものをポケットに忍ばせていて、これらを使っている。自分でも何をやっているのかと笑えて来るのだけど、始めて数年、悪くないなと思っている。

 

ごみのポイ捨てなど悪と思って育った。道端のゴミを見ては、平気で捨てる人への軽蔑や、なんならそれを目にしなければならない事へから捨てる人への憎しみすら感じていた。同じ通勤経路に捨てられたごみは毎日見かける。毎日あの手この手で捨てた人への悪口を考える通勤となっていた。

 

ふと、「でもそういうお前は、そのゴミを何もせず見逃しているな」と気づいた。ごみを捨てる人と、それを放置する人。ぜんぜん違うことではある。が、「ごみを拾う人」と比べたら、どちらも似たようなものではないだろうか。ああ、自分も俯瞰で見れば「街が汚いことを結局肯定する人」でしかないのか。

 

そう思ったら何だかとてもイヤな気持ちになった。軽蔑してきた人と自分は結局のところ同類か。そう思って始めたのがこの気まぐれなゴミ拾い。これは自分が「俺はごみを捨てるようなクズとは違うんだ」と確認し、安心するためのものであって、街を美化したいわけでも、他人に誇って褒められたいわけでも(ほめられりゃそりゃ嬉しいが)ない、自分のための行為でしかない。

 

しかし、この自己満足がいろいろな意味で「悪くない」とこの頃思えるようになった。様々な視点というか、解釈でメリットを見つけられるのだな、と、この頃はそんなことを考えながら通勤している。

 

今まで「捨てる人」への呪詛を考えながら歩いていた通勤時間が、それに比べればずいぶんと健全なものとなった。言い方は悪いが、もう捨てる人のことなどどうでもよくなり、拾うべきゴミがあるかどうかしか気にならない。細かいことだが、拾うのにちょうどいい量のゴミ、拾うのに適した天気など「そろそろやるか」に備えて、良い感じのゴミに目星をつけていくのだ。そう思っていると、ゴミを見て不愉快に思っていたのが、獲物を見つけたような楽しさすら(かすかに)湧いてくるようになった。

 

今のところそこまでにはなっていないが、暇になったら週末に行われるよなゴミ拾いボランティア活動に参加するのも悪くないかも、などと思っている。以前は何が楽しいのかと思っていたそれらの人たちのことが、少しわかる。些末なことではあるが、確実に気持ちよくなれるのだ、ゴミ拾いという活動自体は。すっきり感、達成感。仲間がいたら楽しさもあるだろう。それがわかる。暇でしょうがないからあんなやらんでいいことやるんだろな、くらいに見ていたのに、今はその意義がわかるという内心の変化自体、考えてみると結構大きなことではある。

 

正直なところ、「こんなこと」でしかない、気まぐれな自己満足ゴミ拾いが、あれこれと自分の心境に変化をもたらしていること自体がちょっと不思議で面白い。気の持ちよう、とよく言うが、本当に気が向いた時だけ適当にゴミを拾ってみる、というだけの行動で、こんなにいろいろと世の中の見方が変わった。おそらくはいい方向へ。

 

相変わらずはたから見れば、「バカじゃないか」と思われるようなことをしているという自覚もある。どうせやるならあたりが綺麗になるようちゃんとやればいいじゃないか、結局捨てるやつを利しているだけではないか、悔しくないのかといった理屈もまだ頭に浮かびもする。

 

しかし、それらのことから、今は一定程度距離を置いて、「そういうぱっと見の損得より、俯瞰で考えて自分にとっての損得とは何か」と思うようになり、先に挙げたような自分にとってのメリットは、他人のために働くことに感じる「損」よりも多いな、と思うようになった。

 

他人に勧められるようなものでも全くないが、「損して得取る」とは案外こういう些末すぎるほど些末なところにあるもんなのかな、と思ったのだった。