勝手な正義

 SNS上で見かける自称リベラルという人々は、国籍や人種など本人に変えることのできない事項に基づく差別については徹底的に反対する。それは正しいし潔いとも思っているが、そうして公平な世の中を主張する割に、自分たちで悪と認定した人物や組織に対しては、一切の躊躇も恥もなくとことん攻撃し、批判し、嫌がらせも行い、さらにそれらを「戦功」のように吹聴する。

 なんのことはない。差別差別と騒がれる普通の人が萎縮し我慢している間、彼らは自己認定した攻撃対象を相手に好き放題攻撃しているだけだ。そういう状況が、もうネット上では見透かされている。そのことに彼らはいつ気づくのだろうか。いやその前に自身の行いが「勝手な正義」でしかないことにいつになったら気づいてくれるのだろう。

善悪のバランス

 障害者やマイノリティに対する権利保護を訴える方々は、自身の寛容さをそこにすべて注ぎ込んでいるからなのか、一方で別に障害者ではなく、生活保護受給者でもない、単に仕事ができない人、ネット上で頭の良くない人、あるいは政治家などの権力を負う人間などに対しての悪意のぶつけ方は凄まじいものがあると常に感じる。

 人権を重んじて寛容な彼らには、別の場所で人権を剥奪してめちゃくちゃに罵ってもいい絶対悪な存在がバランス上必要になるのかな、と想像している。人間、簡単に善人になれるほど甘くはないのだ、と。

正当化できる理由

 バニラ・エアに車椅子障害者が腕で登って登場したという騒動は興味深い。かねがねネットの中で感じていた、「普通の人」と「意識の高い人」の戦いを見ているようだ。件自体はすでに広がっているので言及しないが、障害者の権利に関することでも、沖縄のことでも、どうにもできない考え方の溝というものがあるのだな、と感じる。

 

 すなわち、「障害者かどうかとか、沖縄県民かどうかなんてまるで気にかけたこともないが、社会常識に照らして悪いことをする人間は許せない」という感覚と、「絶対的に虐げられている弱者が存在しており、そういう人が声を上げる手段として迷惑を働くことは問題ない」という判断の戦いなのだ。

 

 今回の件は「弱者だからこのくらいの主張、行為は許される」の範疇を大きく越えたと感じる。そのようなことが英雄視されるような状況に対して、多くの人が怒っている。残念なことに意識の高い人々は、これを障害者に対する差別だ!とか、日本の障害者に対する感覚の遅れっぷりは、と嘆いたりしているが、これは私には悪意あるミスリードだと感じる。

 

 今回の件で木島氏に怒っている人の多くは、「障害者は黙ってろ」などとはおそらく思っていない。そういう人もいるだろうが少数で、大半は普通の人だろう。根拠はないが賭けてもいい。その普通の人たちは、今回の怒りと同じように、障害者用スペースに車を止める健常者にも怒りを表明するだろう。

 

 が、「障害者は弱者でその要望は健常者とまったく同等になるレベルまで実現されなければならない」と考えている人たちは、どういうわけかこういう普通の人々をすぐに差別者として批判してしまう。そうではないのに。それは根底に「障害者は権利を獲得するためにはそれなりに行動を起こすべきで、それを批判するものは理由はどうあれ差別主義者」という方程式があるのかな、と思う。

 

 これは非常に不幸なことだ。障害者にも沢山の人がいる。木島氏のようにこうした「活動」を生業とする人もいれば、権利を主張してもいいにも関わらず慎ましくしているような人もいるだろう。しかし、意識の高い人々にとっては、彼らは全員おしなべて「弱者」の引き出しに入っており、社会常識を逸脱するようなことでも権利獲得のためにどんどんやるべし、という取扱を受けている。そして、もともと障害者をどうこうしよう、などと思いもしていない大半の「普通の人」を「意識の低い差別主義者」として批判する。

 

 結果起こるのは、普通の人の障害者に対する忌避感、嫌悪感だろう。仮に障害者本人がなんとも思っていなかったとしても、なにかあるごとに特別待遇を要求されたり騒がれたりするのだったら、今後は腫れ物を扱うように丁寧かつ用心して接することになる。できれば近寄りたくもなくなるし、印象は下がるだろう。いったいこれは、意識高い人々のやりたいことなのだろうか。

 

 私は木島氏以上に、彼を英雄扱いして主張を繰り広げる人々の方に警戒感が高い。彼はパフォーマーだが、それにうかうかと乗っかって自身の正義感を充足させる先にあるものは、差別のない世界、などではおそらくない。なるほど僻地の空港で、車椅子の障害者がそのまま乗れる環境が1つ増えたかもしれないが、代わりに多くの人々に「障害者とは関わらないに越したことがないな」という意識を植え付けた彼らの行為は、はっきりと迷惑だ。障害者に対する風評被害を巻き起こしているようなものではないのか。

 

 障害者の権利を尊重しようと頑張っている方々は、本当に障害者の声に耳を傾けているのかな、と不思議になる。障害者だって健常者と変わらない。外野が自分たちに「弱者」のレッテルを貼り付けた上で、権利を権利をと煽り立て、一般人に譲歩を要求するということを、「ありがとう」と感じている人が果たしてどのくらいいるだろう。

 

 本当は障害者に変わって権利を訴えている自身こそが、障害者を良心を満たすためのダシに使う差別主義者ではないか、そんな自問自答に陥ることは、彼らには本当にないのだろうか。

日本が死んだらしい

「テロ等準備罪」を新設する法案が成立する見通し、としてニュースになっていた。大方の人が「まあ、そうなるんだろうな」と、もう冷めた目で見ているのではないか。その冷ややかな視線は、国会にでもあり、それに反対し、嘆き怒る人たちにでもあり、世間全体に対するものでもある。

 

SNSでは「立憲主義が崩壊する様をこの目で見ることになろうとは」と、シェイクスピアの読み過ぎのような嘆きっぷりを披露する人が溢れている。自分こそ最も嘆くぞ、と競い合っているかのようで、もはや笑えてしまう。

 

彼らの話のとおりなら、今日を境に、もう日本は立憲国家としては「死んだ」事になっており、安倍政権の独裁が完成したことになる。もはや言論の自由は奪われ、疑いをもって官憲は一般市民を自由に拘束できるようになった。「現代の治安維持法」が通ってしまったからには、今後は実際に豹変した安倍政権のもと、政権に反する言動を働く者は疑いだけでどんどん拘束され、ものを言えぬ社会となり、日本は戦争する国として軍靴の音を響かせることになる。

 

当然ながら私はこの手の話を「馬鹿じゃなかろうか」と思ってみている。巨悪に立ち向かいそれが成就しないという悲劇(成就して終わってしまうと困るので、本気で成就させることは考えていない)を迎えた自分、という自己陶酔に浸った彼らの下手な詩人っぷりを見せられているだけなのであって、本気で相手にはできないのだ。

 

 

もしかしたら今後、本当に彼らの言うように日本は暗い時代を迎えるのかもしれない。これまで、震災以降何かにつけ日本は終わっていることになっているため、こちらが麻痺してしまうのも仕方がないのだが、本当にそうなったら私は謝罪文でも掲載することにしようと思っている。

 

しかし、今吹き上がっている彼らはどうするつもりなのだろう。彼らに言わせれば、すでに立憲国家としての日本は死んでいて、言論自由も奪われたはずなのだ。彼らがすべきは捕まらないよう口をつぐむか、本気で国家転覆を企むか、国外に脱出するか、あたりではないか。のんびりSNSに思ったことを書いてみたり、公園を散歩したりといったありふれた日常は彼らにはもう失われているはず。あれだけ日本は死んだと騒いでおいて、普通に会社に出勤するような人がいるのだろうか。

真に受けてしまった

サッカー会場で爆竹の音を爆破テロと思ってパニック、なんてニュース、たちの悪い冗談のような話だ。そんなにも怯えて暮らしているのだ、ヨーロッパの人々は。

 

立派であることは愚かなのかな、と思えてくる。差別をしない、寛容。そういうことを彼らは身を削ってがんばっている。立派なことだと素直に思う。が、その苦行が爆竹に怯える日々の暮らしという形になっていることを、一体彼らはどう思っているのだろう。

 

高尚な理想論を掲げて真に受けてやってみたら大変な事態になってしまったが、いまさら引っ込みもつかないからテロに屈しないと言いつつ怯えて暮らす。そんなふうに映る。

 

その点日本に暮らすリベラルの方々は上手だと思う。ちゃんと理想と現実を分かっているから、憲法9条さえあれば武力はいらないはず、と言ってても自分の家はしっかり鍵をかけセキュリティに気を使うし、日本が軍国主義化すると訴えながらも別に他国へ逃げるわけでもない。本音では日本が結局安全で自衛隊に守られた国で、自身がそういう中で守られて暮らしていることを本当は知っているのだろう。安全に囲まれながら、理想論を披露できる。なんと贅沢な趣味だろう。

先進国?

 安穏と日本で暮らしていると、町中をライフル銃持った警官や兵隊がウロウロし、テロからの逃げ方を実地で学んでいるような国が、人権意識の高い先進国でございます、という位置づけになってるのが馬鹿馬鹿しくて仕方ない。私は町中があんなことになるくらいだったら、人権意識低いと批判されても後進国だとバカにされても別に構わない。

傲慢さを自覚できているかどうか

 イギリスで自爆テロがあり多くの死傷者がでている。NHKニュースでは「対策に限界か」とまで見出しをつけていた。現地に与えた衝撃はかなりなものなのだろう。これを踏まえて、また「極右」勢力は気勢を上げるとされるだろうし、テロには屈しないと言いつつも分断はしないと宣言する「リベラル」勢力もまた危機感を感じることだろうな、と思う。

 これはそういった左右の話とはまったく別の次元のことだが、世の中そうそう虫の良い話というものはないのだな、と感じる。理想的な世界というのは、様々な人種、国籍の人間が差別なしで平和に暮らし、お互いの文化と権利を尊重し、といったことだ。

 しかし、人間誰しも善悪の側面があり、いいとこ取りなどなかなかできないものだ。イスラム圏の人々を受け入れ、労働力として確保し、また人権を尊重する先進国としての対面を保つ。そうしたプラスの部分を欲したからには、テロの危険にさらされる、雇用を失うというリスクも一緒に背負い込む。これは美味しいものを食べると太るようなもので、野放図にする訳にはいかないが、ゼロにはできない、仕方のないものだとして受け入れるしかないのかもしれない。それでも理想を追求しムスリムの人々をどんどん受け入れましょう、とするか、さまざまなメリットを蹴飛ばして移民排斥に動こうとするか。いずれもリスクとリターンがあり、結局それらを切り離すようなことはできないものなのだ。

 リベラルとされる方々の話がなかなか受け入れられないのは、こうした等価交換の法則のようなものを無視することがその前提になっているからなのだろう。移民難民はどんどん受け入れる。他用な文化を尊重する。しかし自国の文化がベースであり、これらが犯罪などの温床になることはない。おそらくそんな世界は実現不可能だ、と判断した人が離れていく。

 少し不思議に感じるのは、リベラルとされる方々は自身の傲慢さというものを自覚しているのだろうか、というところだ。他国あるいは他の宗教を持って自国に流れ込んでくる人たちが、当然民主主義と平和、人権の尊重を求めているに決まっており、強制・教育などせずともそうなることが当然、という傲慢さ。

 私は自分が保守派なのか、ファシストなのかもはやよく分からないが、「ここは自分の国だから、この国に倣って過ごせないなら来ないでほしい」というのは、とてもシンプルなコミュニティを構成する人間の素直な気持ちになりえると思っている。来たい、というなら倣ってほしいし、それができないなら自国にとどまるほうがあなたには向いていますよ、ということだ。

 そのような単純な事情ではない人がいることもわかってはいる。命からがら逃げてくる人に自国の文化を強制し、守れないなら追い出すのか、と。しかし、民主主義や人権を「強制する」という意味では結局リベラルも保守も同じようなものではないか。自国にイスラム国家を作ってください国土の半分あげますよ、というのならまた別だが。

 つまりそれぞれに自国の都合を押し付けるという点では同じだと思う。が、そのことをまったくないものとして振る舞うリベラルとされる方々の意見は、やはり私には素直に染み込んでこない。実現性のない、薄っぺらい偽善の理論としてしか、目に映らないのだ。