正当化できる理由

 バニラ・エアに車椅子障害者が腕で登って登場したという騒動は興味深い。かねがねネットの中で感じていた、「普通の人」と「意識の高い人」の戦いを見ているようだ。件自体はすでに広がっているので言及しないが、障害者の権利に関することでも、沖縄のことでも、どうにもできない考え方の溝というものがあるのだな、と感じる。

 

 すなわち、「障害者かどうかとか、沖縄県民かどうかなんてまるで気にかけたこともないが、社会常識に照らして悪いことをする人間は許せない」という感覚と、「絶対的に虐げられている弱者が存在しており、そういう人が声を上げる手段として迷惑を働くことは問題ない」という判断の戦いなのだ。

 

 今回の件は「弱者だからこのくらいの主張、行為は許される」の範疇を大きく越えたと感じる。そのようなことが英雄視されるような状況に対して、多くの人が怒っている。残念なことに意識の高い人々は、これを障害者に対する差別だ!とか、日本の障害者に対する感覚の遅れっぷりは、と嘆いたりしているが、これは私には悪意あるミスリードだと感じる。

 

 今回の件で木島氏に怒っている人の多くは、「障害者は黙ってろ」などとはおそらく思っていない。そういう人もいるだろうが少数で、大半は普通の人だろう。根拠はないが賭けてもいい。その普通の人たちは、今回の怒りと同じように、障害者用スペースに車を止める健常者にも怒りを表明するだろう。

 

 が、「障害者は弱者でその要望は健常者とまったく同等になるレベルまで実現されなければならない」と考えている人たちは、どういうわけかこういう普通の人々をすぐに差別者として批判してしまう。そうではないのに。それは根底に「障害者は権利を獲得するためにはそれなりに行動を起こすべきで、それを批判するものは理由はどうあれ差別主義者」という方程式があるのかな、と思う。

 

 これは非常に不幸なことだ。障害者にも沢山の人がいる。木島氏のようにこうした「活動」を生業とする人もいれば、権利を主張してもいいにも関わらず慎ましくしているような人もいるだろう。しかし、意識の高い人々にとっては、彼らは全員おしなべて「弱者」の引き出しに入っており、社会常識を逸脱するようなことでも権利獲得のためにどんどんやるべし、という取扱を受けている。そして、もともと障害者をどうこうしよう、などと思いもしていない大半の「普通の人」を「意識の低い差別主義者」として批判する。

 

 結果起こるのは、普通の人の障害者に対する忌避感、嫌悪感だろう。仮に障害者本人がなんとも思っていなかったとしても、なにかあるごとに特別待遇を要求されたり騒がれたりするのだったら、今後は腫れ物を扱うように丁寧かつ用心して接することになる。できれば近寄りたくもなくなるし、印象は下がるだろう。いったいこれは、意識高い人々のやりたいことなのだろうか。

 

 私は木島氏以上に、彼を英雄扱いして主張を繰り広げる人々の方に警戒感が高い。彼はパフォーマーだが、それにうかうかと乗っかって自身の正義感を充足させる先にあるものは、差別のない世界、などではおそらくない。なるほど僻地の空港で、車椅子の障害者がそのまま乗れる環境が1つ増えたかもしれないが、代わりに多くの人々に「障害者とは関わらないに越したことがないな」という意識を植え付けた彼らの行為は、はっきりと迷惑だ。障害者に対する風評被害を巻き起こしているようなものではないのか。

 

 障害者の権利を尊重しようと頑張っている方々は、本当に障害者の声に耳を傾けているのかな、と不思議になる。障害者だって健常者と変わらない。外野が自分たちに「弱者」のレッテルを貼り付けた上で、権利を権利をと煽り立て、一般人に譲歩を要求するということを、「ありがとう」と感じている人が果たしてどのくらいいるだろう。

 

 本当は障害者に変わって権利を訴えている自身こそが、障害者を良心を満たすためのダシに使う差別主義者ではないか、そんな自問自答に陥ることは、彼らには本当にないのだろうか。