野党の存在意義というものがよく分からなくなってきている。政府が何をやっても、何を発言しても、どうにかこうにか解釈をして反対の論陣を張る、ということを使命だと思っているのだろうか。

 

そもそも、ニュースなどで「与野党の攻防が激化」といったときの「攻防」は、本来国会での議論が激化であるべきだと思うが、今「攻防」の中身とされるのは、大臣の失言を理由に「辞職しないと審議には応じられない」と言って審議をボイコットしてみたり、そのくせ採決の時間になると押し寄せて議長からマイクを奪おうとしてみたり、といったことになっている。これは攻防だろうか。いや、単に駄々っ子が暴れ、場を壊しているだけではないのか。

 

彼らは「国民」を無視している。国民は、彼らに政治を行ってもらうことを期待して票を投じ、税金も払っているのだ。それを完全な自分たちの都合でサボり、しかもそれを政府など他人のせいにする。あいつが悪いからオレはサボるんだ、という理屈を、なるほどそれは相手が悪い、などと見る人間がいると本気で思っているのだろうか。

 

などと考えているが、テレビなどでは「これは大臣が辞職しないと」といった訳知り顔の街頭インタビューが登場したりする。テレビも一連のこうした流れを「茶番」ではなく「攻防」として取り上げるあたり、しっかりと野党に付き合ってあげていて優しいものだと思う。

 

本来野党が行うべきは、与党が進めようとしている政策に、対案もしくは修正案を提示し、議論を重ねてより良い方向性へ持っていく、あるいは落とし所を探るということではないのか。しかし、今は政府が何をやっても「戦争法案だ」「国民無視の強行採決だ」と、頭から全てを否定した上で議論にも応じない。ただ相手を悪者だと言うことだけに集中している。

 

彼らにどういう意図があってあのようなことを続けているのか、私にはちょっとわからない。本来なら、野党は支持率を回復して政権交代を実現させたいはずである。であれば、ただただ仕事をサボってがなり立て、他人の足を引っ張る事をアピールするような輩が世間にどう思われるかなどわかりきっているのだから、いい加減愚行をやめ政治の仕事をすればよいのだ。

 

それが出来ないのはなぜなのか。理由が思いつかない。対案を出すだけの知見がないからだろうか。それは由々しき問題だ。それともあのように振る舞っている方が楽だからだろうか。やっぱりサボりだ。あるいは、どういうわけか心の底からあのふるまいが日本のためになると信じてしまっているのだろうか。

 

いずれを考えても、もう頼むから辞めてくれないかとしか言えない。政治の世界というとつい特殊な力学の働く何かのように思いがちだが、冷静に考えればそんなことがいくらもあるわけはない。仕事をするかしないかが問題だ。自分の職場に、提案も仕事もせず、そのくせ他人の提案はレッテルを付けて全て否定しつづけ、意見が通らないと会社を休む。こんな人間がいたら「様々な人間がいてこその組織だからね」って、ならないだろう。それを「政治の世界とはこういうものなのだろうな」などと、都合よく分かってやる必要などまったくない。たまに「通」とされる評論家がこういうことを前提にした上で、このまま審議拒否が続くと国会日程が云々などと言っているが、本当に愚かなことをするのはやめてもらいたい。ちゃんと「サボタージュが続くと」と言え。政治家を甘やかすな。

www.huffingtonpost.jp

 

リベラリストが、というくくり方をすることに躊躇する。おそらく本来の「リベラル」という言葉は、保守的な考え方の人間は無視していい、人格ごと否定してよく話し合ってやる余地などない、というような考え方のものではないだろう。

 

なので記事中で言う「リベラル層」は、本当はそんないいものではなく、やはり「絶対に自分たちの方が正しいのだから異なることを言う人間は追い出したい」という考え方の集団、とでも思うのが自然に感じる。

 

差別だとレッテルさえ貼れば相手を沈黙させられるからと好き放題やっているうちに、相手が人間だということを忘れてしまったのかもしれない。ひどい言いようだが、彼らの「憎い政治家」や「公的権力」に対するやりようを見ていると、そうとしか思えないのだ。

 

アメリカではトランプ氏であり日本では安倍総理大臣がその役どころとなっているが、リベラルでございます、と公言している人たちの彼らの叩きっぷりは常軌を逸している。そのことに気づいてもいない。やることなすことすべて批判し、「戦争への道」に繋げる。そうしたものがかろうじてまっとうな批判、だとして。顔にちょび髭をつけてヒトラーに模してみたり(実際、彼らほど手軽にヒトラーをネタにさせてもらってる人はいないだろう。お礼でもしたらどうか)、罵詈雑言の嵐を浴びせている。

 

言うまでもないが総理大臣も大統領も人間だ。しかし、彼らはどうも「あれは人間であって人間でない」と考えている節がある。

 

沖縄のヘリポート建設現場が騒動のままだが、「土人」という言葉について、「一部の過激な活動家が迷惑をかけていることもあるかもしれないが、沖縄の意思は無視されるべきではなく、例え末端の機動隊員であろうと公的権力を背負っている人間はそのことを自覚しなければならない」と批判している方がいた。

 

これも、「一部の過激な活動家」は人間としてみなしているが、「公的権力を担う機動隊員」は人間である前に権力そのものだ、という考え方をしているのだろうと思う。

 

大阪から沖縄まで出張させられ、わけのわからない罵詈雑言を浴びせられ続け暴力も振るわれながら、一言たりとも反抗的な言葉を発しても暴力もしてはならず、さりとて場を維持しなければならない。・・・私がこんな仕事をさせられたらすぐに根を上げるだろう。

 

私にとっては、活動家だろうが総理大臣だろうが機動隊員だろうが、まずその人は「一人の人間」なので、いったいどういう気持ちでその発言をしたのか、背景にどんな環境があったのかに興味を持つ。しかし、どうもリベラル自称者は、「権力側」となっただけで相手を人間としては見られなくなるようだ。とにかく権力となると人格を喪失した悪魔のように感じているのだろうか。

 

リンクの記事では、リベラル層の側が「トランプ支持者は信用できない」と言い放ち、コミュニケーションを拒絶しているという。そんな彼らが「アメリカは深刻な分断に陥っている」と懸念を表明するというのはお笑い草ではないか。北朝鮮のマネでもしたくなったのだろうか。

 

今こうして巻き起こっている「正義を気取ったリベラリストたちが化けの皮をはがされ、単に自称正義を振りかざして他人を屈服させてきた迷惑な人たちだった」という流れは、今後続くだろうか。その中で我こそはリベラリストと考えてきた人たちはどうするのだろうか。私だったら……相手を人間として見ないで上から批判を続けていたことを反省する。が、ここまでやってきちゃった人は今更カッコ悪くて転向できないだろうか。最後まで自分だけが正義、世界は暗黒に包まれていくと言いながら逃げを打つか。それもまた迷惑な話だ。そちらはどうか知らないが、こちらは一応あなた方のことを血の通った人間だと思っているのだ。つまらない意地を張らないで反省して相手を人間として見てみてはどうか。

「セメント樽の中の手紙」という小説がある。いわゆるプロレタリア文学というやつで、教科書で読んだ人も多いと思う。


主人公はセメントの粉をかき混ぜる機械に投入する仕事をしている。鼻がセメントでごわごわになりながら作業する中、セメントの入った樽の中に手紙も入っているのを見つける。帰宅して読むと、恋人をセメント工場の事故で失った女性からの、悲痛な思いが書かれていた。主人公は酒をあおり「へべれけに酔っ払いてぇなあ、そうして何もかもぶち壊してしまいてぇな」とぼやく。


プロレタリア文学、と言っても、この話の中に労働者の権利を守ろうといったスローガンは出てこない。かすかに読み取れるのは、手紙の女性が、恋人の身体が混ざり込んでしまったセメントを金持ちの邸宅の床に使ったりしないで欲しい、と書くところくらいだ。


この作品、事故で恋人をなくす女性の気持ちに共鳴するものだが、テーマとして主人公の変化が挙げられる。冒頭の主人公は、鼻毛がセメントだらけになるような劣悪な労働環境で日々を過ごしているが、そのことに疑問を持っているわけでもない様子である。さほど自分が不幸だとも抑圧されているとも自覚していないのだ。


しかし、女性の手紙を読んだ主人公はどうにもならない気持ちになり、酒を飲んで「何もかもぶち壊してしまいてぇ」と怒鳴る。彼は、作品中では「学のない人間」として描かれている。本など読まない、権利意識の低い、世の中はそんなもんだ、とやり過ごしている人間だ。それが他人の話を聞くことで、客観視し「これはおかしい、何かが間違っている」と気づいたのだ。しかし、じゃあどうしたらいいか、など皆目見当もつかない。そんな思いの出口が「何もかもぶち壊したい」なのであろう。


紹介が長くなったが、この主人公の気持ちと同じ状況を感じていた多くの人がトランプ氏に投票をしたのだろうと思う。あのような差別主義者に票を入れるなど考えられない、というように、差別の段階で思考を停止させているようでは、彼らのことを理解は出来ないだろう。それが分断の原因だ。彼らはそのようなことより「何もかもぶち壊したい」なのだ。それも、別にアメリカが焼け野原になればいいとか文字通りのことを言っているのではもちろんない。


本当は平穏に過ごしていたあの時に戻りたい。しかし戻れない。あるいはもともと平穏でもなかった。だったら、とにかく今の状況を変えたい。今のままではダメだとわかっているのなら、「とにかく今のままではなくなるほう」を選択するしかないではないか。


そう考えると、トランプ氏を快く思わなくても彼に票を入れる人の気持ちが何となく想像できる。そこには、「できっこないことを今は放言しているが、本当に大統領になったら出来ないことは出来ないと分かるだろう」とか、「トランプが勝つなどありえないのだろうが、民主党の肝を冷やさせるだけでも意味はある」といった、「トランプに投票してしまう自分の正当化」があったと思う。


トランプ氏がそうしたことまで計算していたかどうかは分からないが、少なくともクリントン氏はそのようなことは想像していなかったようだ。彼女は本来なら現状を維持するなどではなく、トランプに負けじと「とにかく変えるんだ」「これまでのようにはしないのだ」というメッセージを送らなければならなかった。しかしそれはできなかった。戦略ミスもあるが、そもそも彼女の依って立つところが現状維持を目指しているのだから仕方がない。彼女は結局、負けるべくして負けたのだ。

 

「セメント樽の中の手紙」において、主人公のような人が願う何もかもぶち壊したいと願う対象は、つまり「その時の世の中」だったわけである。クリントン氏を支持していた人たちにとっては、彼らがなぜ弱者にも関わらずトランプ氏を選ぼうとしたか、やはり理解は出来ないままなのだろうか。彼らが求めるのは「変化」であって「正義」ではない。いや、この場合は、正義とは変化であったのだ。

日本人は差別といったことに対して意識が低い、らしい。海外では様々な人種が入り乱れていることもあり、人種差別に対する人々の意識はとても高く、日本は見習わなければならない。これもよく言われる話だ。


そうかな、と思っている。本当にそれは必要だろうか。というのも、多くの日本人にそもそも人種についての差別意識などないだろうから。


「ガイジンさん」という言い方も好ましくないという向きもあるが、悪意を持ってその言葉を使う人はあまりいないのではないか。想像してみる。どこの国の人でもいいが、その人が道を訪ねてきた場合どうするだろう。おそらくほとんどの日本人は、カタコトの英語を駆使してなんとか説明しようとするか、日本語以外話せないのですまない、といったことを言うだろう。


ここで「お前ら日本語わからないなら来るな、外国人め」と言う人は、それは差別だろうが、ただ道を聞かれただけでこんな反応をする人はまずおるまい。こんな反応をする人は、普段からよほど外国人を憎んでいる人たちだ。


私は、日本人に差別がない、などと言いたいわけではない。被差別部落は今はともかく過去厳然とあったし、それ以外の差別もあるだろう。ただ思うのは、日本における差別の構造というのは、海外から持ちこまれるそれとはかなり様相が違うのではということだ。


村八分という言葉がある。日本においては集団の中でうまく溶け込めるかどうかということが結構な問題で、「空気を読んでうまくやる」事ができない、やらない人は、集落において村八分にされたり、学校においていじめを受けたりする。「いじめられる方にも原因がある」といった屁理屈が飛び出すこともあるが、それは結局のところ「目立ったから」とか「空気を読まないから」といった、集団への適応をしない人への不満である。さらに言えば、自分は集団に合わせて我慢を強いられているのに、どうしてあいつはそうじゃないのだ、という不満。


こうした意識は日本人の多くが持っている。それに基づき日本においては「集団に馴染める人」は「集団に馴染めない人」を遠ざけたり見下したりする。私はこれこそ日本における「差別」だと思っているが、さらに言えば、これは事の善悪とはまったく無関係に、日本人が「うまくやっていく」ことの方策として進めてきたものなのだろう、という気もしている。


「集団に馴染む」ことを重視している日本の社会において、他者を意味もなく罵ってみたり差別するようなことは、それこそ「空気を読まない行動」であり嫌われる。嫌われ者になったらまずい、という集団におけるプレッシャーがあるから、道にゴミを捨てる人もそうはいないし、善人であろうとする。よくも悪くもこれが今の日本の社会システムで、大勢としてはそれでうまく回っているのだと思う。


面白いのは、日本人は差別の意識が低くて云々と海外の事例を持ち出してくる人の多くは、あわせて上記のような日本人の「集団性」についても批判的なことだ。個性を認めない、自由じゃない、強制的。なるほどそうかもな、と思う。


が、現実に「うまくやっている」という視点で見て一体どうなのだろうか。差別に対する意識が高く、個人の人権が尊重されている、と、そうした人々の言うヨーロッパなりアメリカなりはどうだろう。私が見る限りは、そういう主張に耐えかねた人たちが暴動やテロを起こす有様で、差別どころか安全も確保できないようなことになっている。日常においても普通に馬鹿にされることがあると、海外に行った友人からは話を聞く。ただ日本人だからというだけで。


どうも、言っていることとなっていることがまったく違うのである。差別に対する意識を高く持ち、人権を尊重していくと、結果ああなるのか。だったら私は野蛮人扱いされてかまわないから放っておいてほしい。


日本は先進国の中でもまれなくらい安全な国だそうだ。それは外国人にとっては違和感も持つであろう集団の同調圧力が支えていると思う。そういう息苦しさとトレードオフで、夜サンダルでコンビニに行けるような生活が成立しているのだ。そういう現実を踏まえることなく、ただ人権だ差別だと言う人の意見に耳を傾けたところで、あまり有用とは思えないのが正直な感想だ。

特定の個人を攻撃しているわけではない。

 

「真の民主主義の実現を目指す」とか言っていた彼が違法にダウンロードしたWindowsを使っていたのは面白かった。それ違法なんでは?と聞いたら、マイクロソフトは搾取企業だからいいんだと言っていた。

 

彼がこの先どんなに正しいことを言っても、世界平和を訴えても、頭の良さそうな語彙を使いまくってあれこれと論じても、もう私には何の説得力も感じられないのだった。盗人なんだから。

いつだったか、とあるご夫婦の家にお邪魔して話していたことがあった。奥様はワイドショーネタの好きな典型的な女性で、そういったくだらない話をしていたのだが、オネエタレントが増えてきたという話題になった。

 

私は、「オネエタレント、みんなやたらはしゃいでてやかましいので、あんなに出てきてほしくない」といったことを話したのだが、そこで黙っていた旦那さんが急に気色ばんで話し始めた。性別が何だ、オネエだってなんだってテレビに出ていいじゃないか、オネエだからだめとかいうことはないんだ、と。関係性の手前ストレートの発言されなかったが、私の言ったことが差別発言だと受け取ったようだった。

 

「オネエタレントは騒がしい」というのが差別発言なのか。そう言われればそうのような気もするし、「そうなんだ」と言われればこちらは引っ込むしかない。しかし帰りしなつらつら考えても、実際に彼らがテレビ上で騒がしくするキャラを演じているのはそのとおりだし、当時オネエタレントがテレビ内でもてはやされて本当に何人も出ていた。(今はマツコとミッツくらいだが)そういうことを騒がしい、ということが本当に差別に当たるだろうか。

 

そんな些細な事をいつまでも覚えている私も大概陰湿なのだが、その時感じた不快感は、思ってもいないことを「差別」と決めつけられたことにあると思う。これが「オネエタレントなんてテレビに出てはいけない」と言っていたらそりゃ差別だが、私はオネエタレントが騒がしいと言ったのだが。

 

これはもう意識の違いなのかもな、と思う。私が差別に関する意識の低い無知で無神経な輩のため、不用意な発言を行い、差別としてテレビの向こうにいる人を傷つけたということになる、のだろう。しかし、私はそんなことより「オネエ本人が傷ついたと言ってるわけでもないのに、私の発言の意図をさらに大げさに解釈して差別だと言いたがるこの人とは、もう話をしたくないな」と思った。これでは、「いまテレビにいた黒人タレントが」と言っただけでもお叱りを受ける。肌の色など前提に話すべきではないとか。

 

本人は正しいことを言っているつもりだろうから、それが押し付けがましかろうが、相手の意図を捻じ曲げて差別的に捉えたものであろうが気にしてない。自覚があろうがなかろうが、そういう発言はだめだということを自分が教えてやらなきゃ、という思考なのだから。そういうことが反論できない反発を招き、トランプ氏を勝たせるようなことになったのだろうと思う。私はトランプ支持者などでは決してないが、彼が勝ってしまう状況になるまでに至った、彼に票を投じた人たちの心理は何となく分かる。おおよそこのようなことが感じられたのだろう。

 

知識人、という言い方が適当かわからないが、「極右が国の中心になった。これはこれまでこの国の中心だったリベラルな我々がそうではなくなったということだ」と懸念を表明していた人がいた。色々弁解したいだろうが、彼らお得意の決めつけで言わせていただければ、まったく馬脚を現すとはこのことだなと思う。完全に法に則って民主的にトランプ氏が選出されたにも関わらず、自身の支持する考え方と違うものが選ばれてみると「自分たちが中心だったのに、今回そうではなくなったのだ」と言ってしまうその自意識。なかなか普通の人に言えることではない。

 

彼はNY在住で、これまでもずっと沖縄問題や慰安婦問題にいかにもな発言をしてきている。NY在住。今回の選挙によって、アメリカは分断化が進んでおり、それは都市部と内陸の田舎との格差、意識の差であることも分かってきている。「アメリカに住んでいるから知っている」と自称する知識人のほとんどが都市部にいてごく一部のアメリカしか伝えていなかった、それが今回の予想外を招いているということも多くの人が知ることとなった。その状況において、なお「自分たちが国の中心だった」と言い切れるこの人の感覚は、私には恐ろしい。この人には、最初から内陸部の田舎で将来に不安の持てない暮らしを送る白人、など大して意識の中にはないのだ。今回声を上げた層がずっと苦しんでいたことを、彼は存在ごと把握せず「中心は俺たち」でやっていたのだ。

 

彼らがどうしてああも自分の立場に無自覚で、他人に対して過剰に反応しつっかかるのか、仲良くやろうとしないのかが私は不思議で仕方がない。そのくせ自分たちこそが最も多様性を理解し差別をしない平和的な人間で、言論と民主主義が大事だと言い張っているのだ。やりたい放題だな、と吐き捨てたくなることがなぜおかしなことなのか、私にはそちらがわからない。「知識人」とは一体なんだろうか。いや、頭がいいのだろうが、その頭の良さは普通の人を遠ざける方向にしか働いていない。分断を招いているのが自身という自覚も持てない彼らを見ていると、頭良くなるのも考えものだな、という結論になってしまう。まったく、考えものだ。

仕事もせずブラブラしていた頃、スタインベック怒りの葡萄という作品を読んだことがある。葡萄の怪物に人間が襲わるSF者のようだが全然違っていて、資本家と労働者の闘いを描く物語だった。

 

トラクターなどの機会導入によって効率化が図られた結果、資本家は不要な労働者を切り捨て始めた。主人公はそうして首になった労働者たちとともに職を求めてさまよっていき、最終的にはこの体制を変えるための活動に身を投じていく。そんな感じの話だった。

 

今、なんとも思い起こされる話ではないか。トランプ氏が勝利を得たことの分析が様々な視点でなされているが、有力なものとして不法移民の流入により労働力のコストが下がり、職を奪われることに危機感を持った白人の中間所得層や、すでに職を奪われた白人が、ここまでの政治に大してNOを突きつけた、というものがある。

 

怒りの葡萄ではトラクターが悪者だった。2016年にはそれが移民になった。仕組みは同じようなものだ。資本家がコストカットを図り労働者を切り捨てようとした。その反発が今回の結果なのだと考えれば理解もしやすい。

 

もっとも、移民はトラクターのような機械と違って意思を持ち文化や習慣も持っている。機械のように決まったことしかしないでいてくれるわけではない。そうしたものを持ち込まれる事自体への反感というのもあったことだろう。怒りの矛先が直接移民へ向くケースが多いのはそれではないかと思う。

 

ポリティカル・コレクトネスの行き過ぎに対する反発だ、という意見がある。そして、そう思ってる輩は分かってない、その分これまで一部のマイノリティが深刻な苦労を味わってきたのだ、という理屈を言う。愚かなことだ。トランプ支持者は、単に「差別をしたくてたまらないのにさせてもらえない」などと不満を持っているのではないだろう。現実に生活の不安や苦痛を強いられた結果として、その矛先がマイノリティに向かったりしているのだ。なのにそれを「マイノリティのほうが辛いのだから我慢しておればいいのだ」などと言って、何かことが解決したとても考えるのだろうか。バカではなかろうか。

 

ご飯が食べられないと訴える人に、今までお前が食えていたのは他が食えなかったためだ。だからお前は食えなくていいんだ、と言われて納得するような人はいない。どういう理屈をこねられようが腹は減るのだ。理屈などこねなくていいから、飯を与えるべきだし、それしかないのだ。なのに、愛情だ平等だ人権だという主張は、結局のところ怒りの葡萄の主人公には「助け」はもたらさなかった。

 

ただ自分が正義に溢れた人間だと思いたい輩は上記のようなことを言う。自分が自分に安心するためなどではなく、本当に差別をなくしたい、世の中を良くしたいと考えるのなら、移民やマイノリティを保護するように、不安を感じる白人中間層にもそれを安心させる手を打つべきだ。が、彼らはそういうことは一切言わない。

 

なぜだろう。なぜかは分からないが、邪推はしてしまう。移民がいてくれると助かるのは安い労働力を確保できる資本家ではないか。白人中間層を支援しても、労働コストがかかるだけで資本家のプラスにはならない。