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流行語大賞に結局私も影響されているのか。「死ね」という言葉について、随分とネット上では賛否が問われているようだ。

 

最終的にはそれぞれの個人の受け止め度合いによるところが大きいように思うが、私自身は「死ね」というワードの重みを実はそれほど感じていないようだ。それが今回の騒動で認識されたな、と思っている。例えば「黒んぼ」とか「えた・非人」といった差別をダイレクトに表すワードは絶対に口にすべきでなく、冗談や皮肉に混ぜられるようなレベルの毒性ではないと思っているが、「死ね」はそれに比べると日常的なものの位置付けに入っているのだ。

 

喧嘩やいじめの現場において「死ね」はひどい言葉なのだろう。が、日常の些末な事象において、心中「死ね」と毒づきたくなることはさほど珍しくもない。ひどい迷惑をかけられるものから、自動改札でもたつくような人たちへの舌打ちのレベルまで、その幅は広い。むしろ瑣末なことだから、気軽に「死ね」などと毒づいてしまう。あくまでも私の場合だし、あくまでも心のなかで思ってみるだけだ。

 

件のブログを読んではいないが、「日本死ね」に過剰な意味を見出して、やれ愛国心がないとか言うのはナンセンスなことではないか。そのブログが意図的に仕組まれた何か、というものではなく純粋に個人が感情のはけ口としてブログに書き出した言葉なら、特定の個人を指しているわけでもない「日本死ね」を、大きく取り上げて攻撃する必要があるだろうか。

 

どんなことがあっても「死ね」を使ってはならないと教わった、それが当然だという意見も多く見かける。私自身は小学生の頃、急に学校内で「悪口自体ダメだけど、「死ね」は絶対に駄目」というキャンペーンと言うか、そういうものがあった。禁止用語に認定されました、みたいな過程が確かにあった。逆に言うと、それまで「死ね」に関しては、もっと寛容であったと思う。友達同士で笑いながら「お前死ねよー」なんて言うのも普通のことだった。

 

電車内で子どもが騒いでいる。うるさい、死ねよと心中でちらりと思う。が、もしその子が目の前で転んで泣き出したら大丈夫か?と自然に声をかけるだろう。そういうものだ。そこを、言葉だけ大きく捉えて騒がないでほしいなと思う。

 

以前、ネットで私が書いた「死ね」という言葉に「自分が言われたと感じショックを受けた」と批判されたことがある。あなたのことなど想定もしないで書いていることで、そのように感じてしまうか、と思いながら謝ったが、そのような勢いで批判されたのでは、言葉などどんどん使えなくなるだろうなと思った。誰が言い出すのか、「使ってはいけないワード指定」というものがなんとなく決まっていくようで、私はそれのほうが気味が悪いと感じる。

 

 

しかしながら、その「保育園落ちた日本死ね」が流行語大賞にノミネートされ、政治家が不明のブログ作者に変わって授賞式に登壇、という一連のお笑い草はなんなのだろうか。ここまでずっと「死ね」というワードを擁護するようなことを書いてきたが、これを使っていいのは個人が自身の感情を内部において吐露するという限定的な条件がどうしてもつく。隣国に否定的な人たちも、「通常は」自身の出自を明らかにした上で「韓国死ね」などと言わないだろう。それは完全にヘイト発言だからだ。匿名となると誰もが気軽に死ね死ね言い出すのは、つまりそれが心の内側の言葉として押さえられているものだと本人も自覚しているのだ。

 

そうした言葉を公的なメディアが大々的に取り上げる。一企業が勝手に流行語大賞なるものをセットしそういう言葉を選び出すのは企業の勝手だし、その企業がどうかしているということで済ませるべきものを、政治家までもが誇らしげに登壇しコメントを述べ、それらをほとんどの放送局が流している。なんということかと思う。

 

私自身は、本来どういうものであれ言葉を使わせないようにする動きには賛成しないが、かといって、それをどこでも誰にでもぶつけていいとは思っていない。そんな私からすると、「日本死ね」を全国に紹介して回っている彼らは、放送コードなどとつまらないことを言いながら、言葉を扱うことの重さをまるで考えていないのではないか、と心配になってくる。ほんとうに、どういうつもりなのだろうか。