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もちろん私も含め、人間など基本的には自分の都合に良いように物事を解釈し、進めるものなのだろう。私はここで偉そうに「自称リベラリスト」などをくさしているが、私にしたって似たようなものなのだ。いい人に思われたいから表ではいい人ぶるし、いい人に思われたいのは他人に好かれたい、他人から良くしてほしいからなのに違いない。そう思えば同じ穴のムジナなのかもしれない。

 

強いて言うなら、人間などそういう生き物だ、という自分勝手さについて、全く無自覚なまま自己の主張を続ける人に対して、私は愚かと思い反感を持つようだ。これもまた、他者が私を見れば同じように映るものなのだろう。自覚する、などと簡単に言っても難しい。

 

むやみに原発を止めるなどおかしい、冷静に科学的に議論すべきだという、全く正しいことを言ってる人も、マイナスイオンドライヤーを愛用したりする、そういうものなのだ。人間とは。端から見るとおかしなことであっても、本人の中ではなぜか成立してしまう。指摘を受けてみると「そう言えばおかしい。マイナスイオンってなんだ」と自分でも気づくが、そうするとどうして今までそのドライヤーを信じていたのか、もう自分にもわからなくなる。そういうもの。

 

「今の日本は個を潰す社会だ」と主張している人が「法事の席であの服装はどうかと思った」「近所に挨拶もしないなんて」と言うのもある。つくづく思うが、保守的でいることは楽なのだろう。というより、人間は基本的に生まれ育った環境に適応していくので、それを自分から変えることのほうが面倒であり手間でもある。保守的でいるということはそれを変えないということだし、進歩的であることは変えること。しかし、変えるんだと息巻いてもこれまで生きてきた生活習慣や考え方をそうそうガラッとは変えられない。なので都合のいいところで進歩的な発言をしてみても、無自覚な根っこのところに保守が残ったままという不思議な事が起こる。これもまた、本人にはどうしても自覚できないことなのだろう。