慰安婦問題はおそらく肯定派と否定派がこのまま平行線を辿っていくのだろうと思う。どういう事実が出ても、認めなければ主張を曲げないで済む、という状況をここまで積み重ねてきているので、お互い引き下がる気はないのだろう。

 
 私はそのことについて真面目に調べたりしているわけではないが、軍の関与があったかどうかはともかく、要するに兵士の性処理のために過酷な状況に追い込まれた女性というのは国籍にかかわらずいたのだろうと思う。それは当時としては「そういうものだった」のかもしれないが、いま「だから仕方なかった」とまで言う気にはなれない。慰安婦は高給取りだったという指摘もあるが、全員が全員本当にそうだろうかという疑問もある。
 
 上記のことは、日本軍に限らず、どの軍隊でもあったことであろうと思う。慰安婦問題について否定する人の主張は「どこでもやっていたことなのになぜ日本だけを悪者にするのか」という意識ではないかと思う。正直なところ、その感覚はわかる。否定派は様々な資料を繰り出してきて、その正当性を主張する。慰安婦募集の新聞広告だとか、軍が出している慰安婦を丁寧に扱えというお触れだとか。
 
 そして、肯定する人の主張を見ていつも「これは分かり合えないな」と思う。肯定する人の主張で多く見るのは大体「これだけ世界が認めている人権への意識と過去への反省を、日本だけが慰安婦問題を持ち出して否定しようとする。そのことに世界が怒っているのをなぜわからないのか。歴史修正主義者だ」というものだ。
 
 想像するに、肯定する人たちは否定派に何かわからせようという気はないのだろう。簡単に言って「世界がYesというのだからYesと言え、言わないとけしからんやつだ」と言ってるに等しい。そういうロジックは、もとより「敗戦したからといって、事実と異なることまで濡れ衣を被せられ批判されるのはおかしい」という理屈とまったく整合性がない。受け入れられるわけもない。そのことをよく分かっているはずだ。
 
 ちょっと私がわからないのは「歴史修正主義者」というレッテルの意味だ。この文言だけを考えれば、事実ではないことであっても都合がいいように話を作り変えてしまうのが歴史修正主義者ということだと思うのだが、「世界がこう言っているのに言うことを聞かない日本人は歴史修正主義者」というのは、「歴史は事実に基づく」のではなく「歴史はそのときの民衆が遡って決める」ということが前提にならないと成り立たない。歴史修正主義者というワードの指すのは逆なのではないか、と思ってしまう。
 
 色々主張はあるのだろうが、見る限り慰安婦への軍の関与を否定する主張には、あれこれと証拠的な断片が資料として登場するのに対し、肯定派の主張は「世界の常識はこうだ」とか「慰安婦のおばあさんの気持ちを考えると」「NYタイムスでもこんな記事が掲載され恥ずかしい」といった、事実を説明するような資料を伴って、という方法ではないものが多い。いまの世の中がこうなっているのだから、という論調ばかりだ。これでどうやって否定派を説得するつもりなのだろう。やはり、本気でそのつもりはなく、ただ否定派を蔑みたいだけなのではないか、としか思えないのだ。