伝言ゲーム

 夏になると戦争の話題が多くなるが、気になっていることがある。原爆の被害を受けた高齢者が、そのことを語る、という内容のものがある。語り部としてあちこちで話をしたり、英語を覚えて外国人観光客を案内していたり、いずれも戦争は絶対にいけない、戦争の悲惨さを伝えたい、という強い意志の表明でくくられる。

 

 その事自体に別に文句はない。文句はないのだが、「その証言は正確か」という点について、ぼんやりと疑問を感じている。別に彼らが嘘を付いているとか、特定の思想に基づいて意図的に事実を曲げようとしているとかいったことを言いたいわけではない。

 

 伝言ゲームという遊びがある。一つのことを伝えるだけでも、3人程度を介するだけで微妙に意味が変わってしまう、その変化具合を笑うゲームだ。あれは面白いと同時に口頭での情報伝達の難しさを感じさせることでもある。

 

 被爆者の語る戦争体験は伝言ゲームではもちろんない。が、もし自身が壮絶な戦争体験をした過去を持つとして、貴重な体験者としてあちこちで迎え入れられ、指定された時間で戦争体験について語ることを求められる状況を想定してみよう。

 

 相手は小学生などの子供だ。学校集会で語る機会が多い。決められた時間で飽きっぽい子供たちにどう伝えるべきか。そのテーマは何かといったことを考えていくうち、そして回を重ねてスピーチに慣れていく中で、少しずつ事実に脚色が混ざっていくことはあり得る、と思う。おそらく誰でもそうなる。しかも、依頼してくる側はまさにそれを求めている。求められているのは「戦争体験者が語る、戦争絶対にだめというメッセージ」なのであって、そのためには事実がどうだろうと、とにかく劇的で悲惨な話を積み重ねてくれればそれで十分なのだ。

 

 こうしたことを繰り返す中で、体験者の話がやけに劇的であったり、本当かそれは?と思うような内容になっていたとしても彼らを責めるべきではない。しかし、彼らの話を受け止める側には判断力が求められるだろう。戦争体験者がこう言っているのだからこうだ、異論は許さないという「戦争体験者をツールとして使う」やり方を、私は受け入れられない。