なぜ萎縮しているのか

 劉暁波氏が死去された。これについて何か書くのは、私などおこがましい。大して興味も関心もないのに死んだと聞いたら急に興味をもつのは下品なことだ、という意識が働く。

 しかし、中国のように言論の自由が認められていない国に残り、自身の信念を貫いたという生き方はすさまじさを感じる。そしてそんな彼を死に追いやった(と言ってもいいだろう)中国共産党の怖さというものを改めて感じさせられたことではある。

 とは言え、そこはやはり「他国のこと」である。日々生活している人間として、国内事情でもないことにいつまでも関心をもつことは難しい。実際、彼のことについては思ったほどネット上でも話題になっていないようだ。だがなぜだろうか。

 不思議なのだが、日本国内において好きなように言いたいことを言える人たちがわざわざ「萎縮しない」などと宣言している。なぜ宣言するのだろう。宣言などしなくても好き放題言えるのに。そしておそらく好き放題言えることを実際はわかっているのに。

 そして、好き放題言えるのにもかかわらず、劉暁波氏のことについて中国を批判しないのはなぜなのだろうか。なぜそこは萎縮するのか。それとも、他国のことには無関心でいいのか。あるいは中国に関してはむしろ共産党を支持していて、劉氏のことは自業自得くらいに考えているのだろうか。