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日本人は差別といったことに対して意識が低い、らしい。海外では様々な人種が入り乱れていることもあり、人種差別に対する人々の意識はとても高く、日本は見習わなければならない。これもよく言われる話だ。


そうかな、と思っている。本当にそれは必要だろうか。というのも、多くの日本人にそもそも人種についての差別意識などないだろうから。


「ガイジンさん」という言い方も好ましくないという向きもあるが、悪意を持ってその言葉を使う人はあまりいないのではないか。想像してみる。どこの国の人でもいいが、その人が道を訪ねてきた場合どうするだろう。おそらくほとんどの日本人は、カタコトの英語を駆使してなんとか説明しようとするか、日本語以外話せないのですまない、といったことを言うだろう。


ここで「お前ら日本語わからないなら来るな、外国人め」と言う人は、それは差別だろうが、ただ道を聞かれただけでこんな反応をする人はまずおるまい。こんな反応をする人は、普段からよほど外国人を憎んでいる人たちだ。


私は、日本人に差別がない、などと言いたいわけではない。被差別部落は今はともかく過去厳然とあったし、それ以外の差別もあるだろう。ただ思うのは、日本における差別の構造というのは、海外から持ちこまれるそれとはかなり様相が違うのではということだ。


村八分という言葉がある。日本においては集団の中でうまく溶け込めるかどうかということが結構な問題で、「空気を読んでうまくやる」事ができない、やらない人は、集落において村八分にされたり、学校においていじめを受けたりする。「いじめられる方にも原因がある」といった屁理屈が飛び出すこともあるが、それは結局のところ「目立ったから」とか「空気を読まないから」といった、集団への適応をしない人への不満である。さらに言えば、自分は集団に合わせて我慢を強いられているのに、どうしてあいつはそうじゃないのだ、という不満。


こうした意識は日本人の多くが持っている。それに基づき日本においては「集団に馴染める人」は「集団に馴染めない人」を遠ざけたり見下したりする。私はこれこそ日本における「差別」だと思っているが、さらに言えば、これは事の善悪とはまったく無関係に、日本人が「うまくやっていく」ことの方策として進めてきたものなのだろう、という気もしている。


「集団に馴染む」ことを重視している日本の社会において、他者を意味もなく罵ってみたり差別するようなことは、それこそ「空気を読まない行動」であり嫌われる。嫌われ者になったらまずい、という集団におけるプレッシャーがあるから、道にゴミを捨てる人もそうはいないし、善人であろうとする。よくも悪くもこれが今の日本の社会システムで、大勢としてはそれでうまく回っているのだと思う。


面白いのは、日本人は差別の意識が低くて云々と海外の事例を持ち出してくる人の多くは、あわせて上記のような日本人の「集団性」についても批判的なことだ。個性を認めない、自由じゃない、強制的。なるほどそうかもな、と思う。


が、現実に「うまくやっている」という視点で見て一体どうなのだろうか。差別に対する意識が高く、個人の人権が尊重されている、と、そうした人々の言うヨーロッパなりアメリカなりはどうだろう。私が見る限りは、そういう主張に耐えかねた人たちが暴動やテロを起こす有様で、差別どころか安全も確保できないようなことになっている。日常においても普通に馬鹿にされることがあると、海外に行った友人からは話を聞く。ただ日本人だからというだけで。


どうも、言っていることとなっていることがまったく違うのである。差別に対する意識を高く持ち、人権を尊重していくと、結果ああなるのか。だったら私は野蛮人扱いされてかまわないから放っておいてほしい。


日本は先進国の中でもまれなくらい安全な国だそうだ。それは外国人にとっては違和感も持つであろう集団の同調圧力が支えていると思う。そういう息苦しさとトレードオフで、夜サンダルでコンビニに行けるような生活が成立しているのだ。そういう現実を踏まえることなく、ただ人権だ差別だと言う人の意見に耳を傾けたところで、あまり有用とは思えないのが正直な感想だ。