読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

 内戦状態にある国の戦場カメラマンの写真。子供が被害を受けながら悲しい目で見ている写真に言葉を失う。何か自分にできることはないのか、日本はこれをただ黙って見ているのか。そんな訴えを綴っている人がいた。立派だ。そうしたことをSNSで発信し、か弱い声でも上げていこう。いいことだ。

 

 その1時間後、美味しいコーヒーを楽しんでいる写真が投稿されている。何だこれ、と思う。本人の中では、さっきの「言葉もないショック」は30分程で終了し、美味しいコーヒーを楽しむ時間に切り替わったようだ。便利な感情で恐れ入る。

 

 といっても、人間とはそんなものだ。本当に悲しいことには違いないが、手も目も意思も届かない遠いところの悲しいことを常に抱えていられるほど人間は器用でもないし強くもない。SNSではどうしてもリアルタイムと時系列が異なるから、投稿されたものをあとから見ていくと、どうしても怒った後にすぐ喜んでるように見えたりもする。

 

 だが、そう考えるとSNSであれこれと感情をダダ流しにすること自体、あまり良いことでもないのかもしれない。本人にとって「流れ」があっても、後から投稿を見る側にはその時系列も経緯も存在しないのだから。


 ところで、こうした衝撃的な写真というのはすぐ拡散する。上記のような人がすぐ嘆きのコメントを加えて広がっていく。子供や動物は強い。彼も、ただの大人の男が悲しい目をしている写真ではそれほどテンションも上がらなかっただろう。

 

 それも無理からぬ事ではあるが、あまり自覚せず「言葉を失う」といったコメントを書く人の気持ちが私にはちょっとわからない。端的に言って「自覚しないのかな」と思う。

 

 なるほど子供がかわいそうだ。では大人なら別にいいのか。誰だってだめじゃないか。なのに、戦っている大人たちについては特に関心を持つでもなく、子供だということで何枚か上乗せして感情的になっている自分について、アンフェアだな、と感じたり恥ずかしくなったりしないか。

 

 それはないとしても、「言葉を失う」とか「反吐が出る」といった、実際にはしゃべってるじゃん、と思われるコメントを、以下に自分がこのことに心を痛めているか、ということを訴えるためにわざわざPCなりを開いてボタンを押して投稿している、そういう自身を俯瞰で眺めて勘違い感を自覚してしまう、ということはないのだろうか。ないか。あったらできないのか。