トランプ支持者のことなど理解してやる必要はないのか

メリル・ストリープの演説を見た。なるほど感動的だ。彼女が心を傷めているのも分かるし、辛いのだろう。それはそれとして、そのスピーチを絶賛することと合わせてトランプ氏を差別主義者として批判する発言をSNSでちらほらと見かける。

 

これは安倍総理大臣についても同じだが、(メリル・ストリープではなく、そういう有名人の発言などをネタに用いて権力者を批判する)彼らは、政治家という一個人であれば、人格も何もかも否定してしまうような勢いで激しく攻撃をする。それが私にはどうもわからない。自己陶酔か何かなのか?

 

確かにトランプ氏は、誰が見てもちょっと常軌を逸したところがある。普通なら失脚しているような失言が当然のように出てくるので、こちらも感覚が麻痺しそうだ。それに比べると安倍総理など大した暴言もないと思うが、まあ安倍総理個人を嫌いだという人に対して、好き嫌いまでどうこう言うつもりはない。

 

ただ、どちらも国のトップを「簒奪」したわけではない。仮にもそれぞれの国の民主的とされている制度にのっとってその座についた(つく)人物だ。それはどういうことか。彼らがトップになるほど、彼らを「選んだ」国民がいるということだ。当たり前のことだが。

 

批判を高める彼らのその中身となると、「このようなレイシストが(あるいは軍国主義者が)国を動かすなどありえない」といった、すぐにも国が滅ぶと言わんばかりの温度での批判が一般的に映るのだが、その熱量だと、前提としては「このような狂人を選ぶような人間は頭がおかしい」というレベルだ。

 

私はそれは、安倍総理なりトランプ氏なりに投票した人に対して失礼ではないかな、と感じている。仮にトランプ氏がまごうことなきレイシストだったとして、彼に投票した人たちは別に彼がレイシストであることを支持したわけではないだろう。そういう人もいるだろうがそれが全てではない。

 

トランプ氏を嫌いなのはいいとして、そういう人が本来行うべき行動は、トランプ氏を批判すると同時に、彼を支持してしまった人たちの理由を分析し、次にトランプ氏が選ばれてしまうことが起こらないようにする方策を考えることではないのだろうか。

 

それは平たく言えば、トランプ支持者を味方につけるということだ。本物のレイシストとは分かり合えないとしても、民主党への不信からやむを得ず共和党を選択したような人たちについて、なぜそうしたかを理解し、どうなればもっとまともな候補者を支持するようにできるか、それを考えなければならないのではないか。

 

彼らが実際にしていることと言えば、トランプ氏をこき下ろし、あんな人間を選ぶ人間もまたレイシストに決まっている、という論旨ばかりだ。理解どころか、相手を人格ごと拒絶し否定しているのはこちらの方ではないかとすら思う。

 

メリル・ストリープのスピーチは素晴らしかった、のだろう。それはいい。だが、彼らはトランプ氏一個人を攻撃し排斥すれば、あとは全て良くなるとでも思っているのだろうか。その後ろにとてつもない数の彼の支持者がいて、これが「民主主義が生み出した結果」だということについて、ちょっと認識が甘すぎるのではないだろうか。

 

単にリベラリストを気取って自己陶酔したいだけの人間だったら、これで目的は達しているのだから結構なことだが、本気で国をどうにかしないとと考えてのことだとしたら、実に愚かだと思う。彼らはトランプ氏一個人だけを見て、その背後を推測しようなどとしていないのだから。

 

「アベ政治を許さない」というスローガンを掲げることの愚かさ。これはもう、「どんないい政策であってもアベがやるなら許さない」とでも言っているかのようで、人格攻撃をしたくて仕方がないことをわかりやすく表してくれていると思う。民主的な政治というものを一番わかっていないのは、本当はこうした人達なのではないかという気もしてくる。そんなはずはないのに。彼らはきっと「わかっている」のだが、心情的には「分かりたくない」のではないかと思う。

SMAPのファンでもない私は、解散騒動に特に関心を持つこともなく過ごしているが、「フジテレビの内輪感」というものについてとても分かる話を見かけた。

 

あっ、最後にちょっとだけめんどくさいこと言ってもいいですか?(イヤって言われても言うけど) エンディングでSMAPのメンバーと制作スタッフがひとりずつ並んで写真撮影をするようなシーンが続いたのですが、こういう「内向きな感じ」が今のフジテレビの問題点だと思うのです。これが公開収録で、ファンの前での最後の『世界にひとつだけの花』だったのならともかく、非公開での収録+スタッフとの記念撮影というのは、スタッフは嬉しいだろうけど、視聴者、とくにファンは完全に「置き去りにされている」。

SMAPファンじゃない中年男が『SMAP×SMAP最終回』を観て思ったこと - いつか電池がきれるまで

 

テレビ界を「ギョーカイ」として、その内輪を広めていったのはとんねるずとフジテレビではないかと思う。「ギョーカイ用語」を使ったり、ギョーカイのことを知っているのがエライ、という雰囲気だ。一般社会から見ておかしなことであっても、「それがギョーカイってものだから」ということで納得させ、ギョーカイのことも知っている人間が「通」であるといった方向性。

 

そういった方向性は今も続いていて、かわいい女子アナウンサーを番組内でもてはやすような朝の番組があったり、芸能界における常識を(事務所を移籍すると干されるとか)さも当然ということとして放送したりと、「ギョーカイ」のことは、ある程度一般社会にも「そういうもの」として認知されてきているように思う。

 

が、本当は認知などしてやる必要はなかったのではないか、と私はいつも思っている。芸能人だからと言って、日本の法律や規則や常識が特に変更することもない。事務所を移籍(一般社会ならライバル会社への転職か)したからといってしばらく仕事がなくなる、などおかしなことだ。それもファンという需要はしっかりとあるのに、だ。ファンと芸能人の間には完全にパッキングされた「ギョーカイ」がいて、それがファンの邪魔をしている。それは本来除去されるべきものだが、メディアはもちろん一般人の中にも「義理を欠いたのだから干されてしかるべき」などと無駄に物分りの良いコメントをする人がいて困ったものだ。そのようなことを何故慮ってやらなければならないのか。

 

このようなことがいつから浸透したのかわからないが、同じようなことがもっと深く浸透しているのが政治の世界だと思う。以前も書いたが、国会議員が審議を拒否する、というのは、要するに公務のサボタージュではないか。ストライキをしているようなものだ。それを「攻防が激化しています」などと放送するテレビ局は何を勘違いしているのだろうか。

 

国会における攻防とは、案件(それも議員のスキャンダルなどではなく政策や法律のこと)について討論が激しく行われることを言うべきだろう。野党が審議拒否をしたり、水面下で政治家同士が密談したなどという話は、「仕事」などではないのだから。それをなぜか、国会での議論の様子はそこそこに、したり顔の政治部記者などが政治家の動向や審議拒否が遅くまで続いたこと、今後の国会の日程からするといつまでに採決が、などと、「ギョーカイ情報」よろしく永田町のルールをコメントしてくる。

 

そのようなものは本来無用のものなのだ。国民が国会議員に求めているのは、良い政治をするために法案をしっかり議論してもらうことであり、彼らの生活ぶりやサボりっぷりなどは「スキャンダルの話」であって「政治の話」ではない。それをメディアが先頭に立って勘違いしているのは異常だ。勘違いと言っても、おそらくは「勘違いしたままのほうがネタを取るのに楽だから」わざとそうしているのだろうが。

 

民進党蓮舫氏が党首となり「これからは提案型」などと最初は言っていたが、今となっては何から何までただ反対パフォーマンスをするだけの、今までと特に変わりのない「ザ・民主党」を貫いている。私には彼らが「この方向性で行けば今後も勢力を伸ばせる」と考えているのか「政治能力がないのでこういったことしかできない」と考えているのかわからないが、どっちにしても彼らのどこを支持すべき点として挙げられるのか、まったく見つけられない。あれは仕事をしないで税金をもらう公務員の最たるものの姿と言っても過言ではないのではないか。何しろ堂々とサボる宣言をして審議拒否なのだから。

 

そのようなことをまかり通らせてしまっているのは、結局のところ「無駄に物分りよく放送しているメディア」と「政治とはそういうものなのかと素直に受け止めてあげる視聴者」の構図が消えないからではないかと思う。普通に考えようではないか。自分の会社に、自分の異なる意見が通るようなら会社に来ないぞと宣言して本当に来なかったり、一度反対と言いだしたら相手の話も一切聞かず議論も妥協もしないような人間がいたら、どれほど迷惑なことか。それとこれと、何も変わるところなどないのだ。

 

こちらの常識を何でも押し付けてよいというわけではないだろうが、だからといって基本的に文化や風習が違うわけではない同じ日本の「業界」について、無意味に慮るのはもうやめにすべきだ。相手のことを知らないのか、などと恥じ入る必要はまったくない。むしろしたり顔でコメントを吐き散らすような、政治評論家を装った「政局評論家」を拒否しなければならない。

心中ひそかに「外国かぶれだなあ」と思っている知人がいる。特にこちらから聞いてなくてもそうした説明をしてくる人だ。

 

日本の映画はあまり見ないという。日本人の俳優は普通にバラエティ番組などにも登場して素の姿を見せているので、邦画は感情移入しにくいのだそうだ。

 

しかし、朝の連続テレビ小説などのドラマはしっかりと見ている。

 

日本の家電はダサいという。ボタンにあれこれと説明が気がついているのがセンスが無いそうだ。その点ヨーロッパの製品は余計な説明がなくシンプルでおしゃれ。

 

しかし、そうやって購入した外国の製品をその後もずっと使っているようには見えない。

 

日本のアニメはあまり好きではないという。理由はない。海外のアニメはセンスがあるので好き。

 

しかし、世界名作劇場など見て育ったものは話が別だ。


3つほど重なってくると「いやー、単に日本ダサい外国すごい、外国の良さが分かる自分すごい」を言いたくて仕方ないのだろう、とつい思ってしまう。いやあるいは、「日本って素晴らしい!」という主張をしたくないという気持ちなのかもしれない。

 

私も最近のテレビ番組などで見かける、日本を持ち上げるようなものは不快感を持つが、かと言って普通にあるものを否定までする気にはならない。どうしてそこまで過剰に反応するのだろうか。

 

私は日本がことさら素晴らしい国だとは思っていないが、ことさらダメな国だとも思っていない。どこの国にもいいところと悪いところがあるのだろうと思っている。そんな私からすると、「海外はいい」という人は、何か特殊なコンプレックスでも植え付けられているのだろうかと不思議になる。

 

アレッポの惨状に胸を痛めると同時に、それを日本のマスコミが取り上げようとしない、また日ロ首脳会談でこのことが取り上げられなかった事に憤りを感じている人が多いようだ。

 

私に言わせれば、あなたも今急にアレッポアレッポ言い出しただけじゃないかという思いもある。たとえそうであってもそれが大きな声となって苦しむ人への配慮がされるのなら、結構なことなのかもしれないが。

 

極端な話、アレッポがどうなるかは私にとってさほど注目点ではない。別に罪もない人が死のうが知ったことではない、などとひどいことを言いたいわけではない。でも、私には生活があり、否応なく仕事も降ってきて、「シリアの人々が心配で仕事が手につきません」というわけにも行かないのだから仕方がない。

 

そんな、中東のひどい状況を見ながらも、大河ドラマを見て普通に生活をしていることへの後ろめたさを感じてしまう私としては、さも自分はずっとシリアの惨状に心を痛めてきたのです、といった主張をするには忍びない。石鹸など買ってささやかでも良心の痛みを軽減しようと試みる。そんなところだ。

 

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が、そうでもない人も多いようで、アレッポの状況に胸が痛む、どうして誰も声を上げないのか、と書き出した人が数時間後に美味しいランチの写真をネットに上げていたりする。ああこの人にとっては、悲惨な人を嘆いてみたり、怒りを政治にぶつけてみたりすることも、ある意味消費活動の一つなのだろう、と思わされる。何でもかんでも自分の楽しみにできて、実に充実した人生を送っていることだろう。うらやましい限りだ。

 

 

流行語大賞に結局私も影響されているのか。「死ね」という言葉について、随分とネット上では賛否が問われているようだ。

 

最終的にはそれぞれの個人の受け止め度合いによるところが大きいように思うが、私自身は「死ね」というワードの重みを実はそれほど感じていないようだ。それが今回の騒動で認識されたな、と思っている。例えば「黒んぼ」とか「えた・非人」といった差別をダイレクトに表すワードは絶対に口にすべきでなく、冗談や皮肉に混ぜられるようなレベルの毒性ではないと思っているが、「死ね」はそれに比べると日常的なものの位置付けに入っているのだ。

 

喧嘩やいじめの現場において「死ね」はひどい言葉なのだろう。が、日常の些末な事象において、心中「死ね」と毒づきたくなることはさほど珍しくもない。ひどい迷惑をかけられるものから、自動改札でもたつくような人たちへの舌打ちのレベルまで、その幅は広い。むしろ瑣末なことだから、気軽に「死ね」などと毒づいてしまう。あくまでも私の場合だし、あくまでも心のなかで思ってみるだけだ。

 

件のブログを読んではいないが、「日本死ね」に過剰な意味を見出して、やれ愛国心がないとか言うのはナンセンスなことではないか。そのブログが意図的に仕組まれた何か、というものではなく純粋に個人が感情のはけ口としてブログに書き出した言葉なら、特定の個人を指しているわけでもない「日本死ね」を、大きく取り上げて攻撃する必要があるだろうか。

 

どんなことがあっても「死ね」を使ってはならないと教わった、それが当然だという意見も多く見かける。私自身は小学生の頃、急に学校内で「悪口自体ダメだけど、「死ね」は絶対に駄目」というキャンペーンと言うか、そういうものがあった。禁止用語に認定されました、みたいな過程が確かにあった。逆に言うと、それまで「死ね」に関しては、もっと寛容であったと思う。友達同士で笑いながら「お前死ねよー」なんて言うのも普通のことだった。

 

電車内で子どもが騒いでいる。うるさい、死ねよと心中でちらりと思う。が、もしその子が目の前で転んで泣き出したら大丈夫か?と自然に声をかけるだろう。そういうものだ。そこを、言葉だけ大きく捉えて騒がないでほしいなと思う。

 

以前、ネットで私が書いた「死ね」という言葉に「自分が言われたと感じショックを受けた」と批判されたことがある。あなたのことなど想定もしないで書いていることで、そのように感じてしまうか、と思いながら謝ったが、そのような勢いで批判されたのでは、言葉などどんどん使えなくなるだろうなと思った。誰が言い出すのか、「使ってはいけないワード指定」というものがなんとなく決まっていくようで、私はそれのほうが気味が悪いと感じる。

 

 

しかしながら、その「保育園落ちた日本死ね」が流行語大賞にノミネートされ、政治家が不明のブログ作者に変わって授賞式に登壇、という一連のお笑い草はなんなのだろうか。ここまでずっと「死ね」というワードを擁護するようなことを書いてきたが、これを使っていいのは個人が自身の感情を内部において吐露するという限定的な条件がどうしてもつく。隣国に否定的な人たちも、「通常は」自身の出自を明らかにした上で「韓国死ね」などと言わないだろう。それは完全にヘイト発言だからだ。匿名となると誰もが気軽に死ね死ね言い出すのは、つまりそれが心の内側の言葉として押さえられているものだと本人も自覚しているのだ。

 

そうした言葉を公的なメディアが大々的に取り上げる。一企業が勝手に流行語大賞なるものをセットしそういう言葉を選び出すのは企業の勝手だし、その企業がどうかしているということで済ませるべきものを、政治家までもが誇らしげに登壇しコメントを述べ、それらをほとんどの放送局が流している。なんということかと思う。

 

私自身は、本来どういうものであれ言葉を使わせないようにする動きには賛成しないが、かといって、それをどこでも誰にでもぶつけていいとは思っていない。そんな私からすると、「日本死ね」を全国に紹介して回っている彼らは、放送コードなどとつまらないことを言いながら、言葉を扱うことの重さをまるで考えていないのではないか、と心配になってくる。ほんとうに、どういうつもりなのだろうか。

 

 

そもそもの話として、「流行語大賞」はユーキャンという会社が主催しているという。同様にもてはやされる「今年の漢字」は漢字検定協会が決めているそうだ。

 

もはや、年末の風物詩ですね、と言わないばかりにこの2つは毎年テレビに取り上げられるようになっている。なってはいるが、一民間企業が勝手に決めて勝手に発表しているところのものを、NHKを始めとする放送局全てがこぞって「今年はこれなんですよ」と伝えてくるのはどういうことだろうか、と不思議に思っている。伝える義務などまったくないのに。

 

端的に言って、知った事か、なのだ。私が選任したわけでも、選挙で選ばれたわけでもない、ユーキャンが勝手に決めた有識者が、何かの客観的なデータに基づいているわけでもなく、印象で「今年の流行はこれ」と言っている。なぜか清水寺の坊さんが今年の漢字を書く。なぜか外で書き上げ、それをカメラが取り囲む。何の儀式だろう。別に何の伝統も決まり事もない。協会が勝手に始めたことだ。

 

が、伝統はこうやって作られていくのだろうか。全国にちょっと意味の分からないお祭りなどは確かにある。それらもスタートはこういったことだったのかもしれない。

 

そういうものなのかな、とすんなり見流していくのが一番スマートなのだろううが、私個人はやはり、こんなくだらないもの、やめてしまえばいいのにと思っている。

 

流行語大賞とされる言葉たちの流行していないっぷりはどうだろうか。今年の漢字に何がなるのか知らないが、何がなっても「そう言えばそうだろうけど、そうか?」という着地点はどうしたらいいのか。そもそものこととして、スポーツ選手などに「あなたにとって○○とはなんですか?(様々な要素があるにもかかわらず)一言でお願いします」と同じ、本質的に無理な質問とその答え。

 

昔はメディアが「こうだ!」と言えば、皆がそれを信じて本当にそうなっていたし、そうした中にいることの一体感、というようなものも確かにあったと思うが、今はメディアがこうですよと言ったところでウソだ、そんなわけないよという人が一定数は出てきている。そもそも「流行に乗らなければ」という強迫観念も、過去に比べたら薄れているのではないか。昔のままの構造だったら、ハロウィンはもっと本格的に盛り上がっていたと思う。

 

すでに、「今年の漢字が決まると年の暮れって感じだね」と、素直に乗っかってあげている人もいることとは思う。別にそれを悪いとは言わないが、なんでそこまで素直に決められてあげてるの?と不思議だ。

もちろん私も含め、人間など基本的には自分の都合に良いように物事を解釈し、進めるものなのだろう。私はここで偉そうに「自称リベラリスト」などをくさしているが、私にしたって似たようなものなのだ。いい人に思われたいから表ではいい人ぶるし、いい人に思われたいのは他人に好かれたい、他人から良くしてほしいからなのに違いない。そう思えば同じ穴のムジナなのかもしれない。

 

強いて言うなら、人間などそういう生き物だ、という自分勝手さについて、全く無自覚なまま自己の主張を続ける人に対して、私は愚かと思い反感を持つようだ。これもまた、他者が私を見れば同じように映るものなのだろう。自覚する、などと簡単に言っても難しい。

 

むやみに原発を止めるなどおかしい、冷静に科学的に議論すべきだという、全く正しいことを言ってる人も、マイナスイオンドライヤーを愛用したりする、そういうものなのだ。人間とは。端から見るとおかしなことであっても、本人の中ではなぜか成立してしまう。指摘を受けてみると「そう言えばおかしい。マイナスイオンってなんだ」と自分でも気づくが、そうするとどうして今までそのドライヤーを信じていたのか、もう自分にもわからなくなる。そういうもの。

 

「今の日本は個を潰す社会だ」と主張している人が「法事の席であの服装はどうかと思った」「近所に挨拶もしないなんて」と言うのもある。つくづく思うが、保守的でいることは楽なのだろう。というより、人間は基本的に生まれ育った環境に適応していくので、それを自分から変えることのほうが面倒であり手間でもある。保守的でいるということはそれを変えないということだし、進歩的であることは変えること。しかし、変えるんだと息巻いてもこれまで生きてきた生活習慣や考え方をそうそうガラッとは変えられない。なので都合のいいところで進歩的な発言をしてみても、無自覚な根っこのところに保守が残ったままという不思議な事が起こる。これもまた、本人にはどうしても自覚できないことなのだろう。