アレッポの惨状に胸を痛めると同時に、それを日本のマスコミが取り上げようとしない、また日ロ首脳会談でこのことが取り上げられなかった事に憤りを感じている人が多いようだ。

 

私に言わせれば、あなたも今急にアレッポアレッポ言い出しただけじゃないかという思いもある。たとえそうであってもそれが大きな声となって苦しむ人への配慮がされるのなら、結構なことなのかもしれないが。

 

極端な話、アレッポがどうなるかは私にとってさほど注目点ではない。別に罪もない人が死のうが知ったことではない、などとひどいことを言いたいわけではない。でも、私には生活があり、否応なく仕事も降ってきて、「シリアの人々が心配で仕事が手につきません」というわけにも行かないのだから仕方がない。

 

そんな、中東のひどい状況を見ながらも、大河ドラマを見て普通に生活をしていることへの後ろめたさを感じてしまう私としては、さも自分はずっとシリアの惨状に心を痛めてきたのです、といった主張をするには忍びない。石鹸など買ってささやかでも良心の痛みを軽減しようと試みる。そんなところだ。

 

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が、そうでもない人も多いようで、アレッポの状況に胸が痛む、どうして誰も声を上げないのか、と書き出した人が数時間後に美味しいランチの写真をネットに上げていたりする。ああこの人にとっては、悲惨な人を嘆いてみたり、怒りを政治にぶつけてみたりすることも、ある意味消費活動の一つなのだろう、と思わされる。何でもかんでも自分の楽しみにできて、実に充実した人生を送っていることだろう。うらやましい限りだ。

 

 

流行語大賞に結局私も影響されているのか。「死ね」という言葉について、随分とネット上では賛否が問われているようだ。

 

最終的にはそれぞれの個人の受け止め度合いによるところが大きいように思うが、私自身は「死ね」というワードの重みを実はそれほど感じていないようだ。それが今回の騒動で認識されたな、と思っている。例えば「黒んぼ」とか「えた・非人」といった差別をダイレクトに表すワードは絶対に口にすべきでなく、冗談や皮肉に混ぜられるようなレベルの毒性ではないと思っているが、「死ね」はそれに比べると日常的なものの位置付けに入っているのだ。

 

喧嘩やいじめの現場において「死ね」はひどい言葉なのだろう。が、日常の些末な事象において、心中「死ね」と毒づきたくなることはさほど珍しくもない。ひどい迷惑をかけられるものから、自動改札でもたつくような人たちへの舌打ちのレベルまで、その幅は広い。むしろ瑣末なことだから、気軽に「死ね」などと毒づいてしまう。あくまでも私の場合だし、あくまでも心のなかで思ってみるだけだ。

 

件のブログを読んではいないが、「日本死ね」に過剰な意味を見出して、やれ愛国心がないとか言うのはナンセンスなことではないか。そのブログが意図的に仕組まれた何か、というものではなく純粋に個人が感情のはけ口としてブログに書き出した言葉なら、特定の個人を指しているわけでもない「日本死ね」を、大きく取り上げて攻撃する必要があるだろうか。

 

どんなことがあっても「死ね」を使ってはならないと教わった、それが当然だという意見も多く見かける。私自身は小学生の頃、急に学校内で「悪口自体ダメだけど、「死ね」は絶対に駄目」というキャンペーンと言うか、そういうものがあった。禁止用語に認定されました、みたいな過程が確かにあった。逆に言うと、それまで「死ね」に関しては、もっと寛容であったと思う。友達同士で笑いながら「お前死ねよー」なんて言うのも普通のことだった。

 

電車内で子どもが騒いでいる。うるさい、死ねよと心中でちらりと思う。が、もしその子が目の前で転んで泣き出したら大丈夫か?と自然に声をかけるだろう。そういうものだ。そこを、言葉だけ大きく捉えて騒がないでほしいなと思う。

 

以前、ネットで私が書いた「死ね」という言葉に「自分が言われたと感じショックを受けた」と批判されたことがある。あなたのことなど想定もしないで書いていることで、そのように感じてしまうか、と思いながら謝ったが、そのような勢いで批判されたのでは、言葉などどんどん使えなくなるだろうなと思った。誰が言い出すのか、「使ってはいけないワード指定」というものがなんとなく決まっていくようで、私はそれのほうが気味が悪いと感じる。

 

 

しかしながら、その「保育園落ちた日本死ね」が流行語大賞にノミネートされ、政治家が不明のブログ作者に変わって授賞式に登壇、という一連のお笑い草はなんなのだろうか。ここまでずっと「死ね」というワードを擁護するようなことを書いてきたが、これを使っていいのは個人が自身の感情を内部において吐露するという限定的な条件がどうしてもつく。隣国に否定的な人たちも、「通常は」自身の出自を明らかにした上で「韓国死ね」などと言わないだろう。それは完全にヘイト発言だからだ。匿名となると誰もが気軽に死ね死ね言い出すのは、つまりそれが心の内側の言葉として押さえられているものだと本人も自覚しているのだ。

 

そうした言葉を公的なメディアが大々的に取り上げる。一企業が勝手に流行語大賞なるものをセットしそういう言葉を選び出すのは企業の勝手だし、その企業がどうかしているということで済ませるべきものを、政治家までもが誇らしげに登壇しコメントを述べ、それらをほとんどの放送局が流している。なんということかと思う。

 

私自身は、本来どういうものであれ言葉を使わせないようにする動きには賛成しないが、かといって、それをどこでも誰にでもぶつけていいとは思っていない。そんな私からすると、「日本死ね」を全国に紹介して回っている彼らは、放送コードなどとつまらないことを言いながら、言葉を扱うことの重さをまるで考えていないのではないか、と心配になってくる。ほんとうに、どういうつもりなのだろうか。

 

 

そもそもの話として、「流行語大賞」はユーキャンという会社が主催しているという。同様にもてはやされる「今年の漢字」は漢字検定協会が決めているそうだ。

 

もはや、年末の風物詩ですね、と言わないばかりにこの2つは毎年テレビに取り上げられるようになっている。なってはいるが、一民間企業が勝手に決めて勝手に発表しているところのものを、NHKを始めとする放送局全てがこぞって「今年はこれなんですよ」と伝えてくるのはどういうことだろうか、と不思議に思っている。伝える義務などまったくないのに。

 

端的に言って、知った事か、なのだ。私が選任したわけでも、選挙で選ばれたわけでもない、ユーキャンが勝手に決めた有識者が、何かの客観的なデータに基づいているわけでもなく、印象で「今年の流行はこれ」と言っている。なぜか清水寺の坊さんが今年の漢字を書く。なぜか外で書き上げ、それをカメラが取り囲む。何の儀式だろう。別に何の伝統も決まり事もない。協会が勝手に始めたことだ。

 

が、伝統はこうやって作られていくのだろうか。全国にちょっと意味の分からないお祭りなどは確かにある。それらもスタートはこういったことだったのかもしれない。

 

そういうものなのかな、とすんなり見流していくのが一番スマートなのだろううが、私個人はやはり、こんなくだらないもの、やめてしまえばいいのにと思っている。

 

流行語大賞とされる言葉たちの流行していないっぷりはどうだろうか。今年の漢字に何がなるのか知らないが、何がなっても「そう言えばそうだろうけど、そうか?」という着地点はどうしたらいいのか。そもそものこととして、スポーツ選手などに「あなたにとって○○とはなんですか?(様々な要素があるにもかかわらず)一言でお願いします」と同じ、本質的に無理な質問とその答え。

 

昔はメディアが「こうだ!」と言えば、皆がそれを信じて本当にそうなっていたし、そうした中にいることの一体感、というようなものも確かにあったと思うが、今はメディアがこうですよと言ったところでウソだ、そんなわけないよという人が一定数は出てきている。そもそも「流行に乗らなければ」という強迫観念も、過去に比べたら薄れているのではないか。昔のままの構造だったら、ハロウィンはもっと本格的に盛り上がっていたと思う。

 

すでに、「今年の漢字が決まると年の暮れって感じだね」と、素直に乗っかってあげている人もいることとは思う。別にそれを悪いとは言わないが、なんでそこまで素直に決められてあげてるの?と不思議だ。

もちろん私も含め、人間など基本的には自分の都合に良いように物事を解釈し、進めるものなのだろう。私はここで偉そうに「自称リベラリスト」などをくさしているが、私にしたって似たようなものなのだ。いい人に思われたいから表ではいい人ぶるし、いい人に思われたいのは他人に好かれたい、他人から良くしてほしいからなのに違いない。そう思えば同じ穴のムジナなのかもしれない。

 

強いて言うなら、人間などそういう生き物だ、という自分勝手さについて、全く無自覚なまま自己の主張を続ける人に対して、私は愚かと思い反感を持つようだ。これもまた、他者が私を見れば同じように映るものなのだろう。自覚する、などと簡単に言っても難しい。

 

むやみに原発を止めるなどおかしい、冷静に科学的に議論すべきだという、全く正しいことを言ってる人も、マイナスイオンドライヤーを愛用したりする、そういうものなのだ。人間とは。端から見るとおかしなことであっても、本人の中ではなぜか成立してしまう。指摘を受けてみると「そう言えばおかしい。マイナスイオンってなんだ」と自分でも気づくが、そうするとどうして今までそのドライヤーを信じていたのか、もう自分にもわからなくなる。そういうもの。

 

「今の日本は個を潰す社会だ」と主張している人が「法事の席であの服装はどうかと思った」「近所に挨拶もしないなんて」と言うのもある。つくづく思うが、保守的でいることは楽なのだろう。というより、人間は基本的に生まれ育った環境に適応していくので、それを自分から変えることのほうが面倒であり手間でもある。保守的でいるということはそれを変えないということだし、進歩的であることは変えること。しかし、変えるんだと息巻いてもこれまで生きてきた生活習慣や考え方をそうそうガラッとは変えられない。なので都合のいいところで進歩的な発言をしてみても、無自覚な根っこのところに保守が残ったままという不思議な事が起こる。これもまた、本人にはどうしても自覚できないことなのだろう。

野党の存在意義というものがよく分からなくなってきている。政府が何をやっても、何を発言しても、どうにかこうにか解釈をして反対の論陣を張る、ということを使命だと思っているのだろうか。

 

そもそも、ニュースなどで「与野党の攻防が激化」といったときの「攻防」は、本来国会での議論が激化であるべきだと思うが、今「攻防」の中身とされるのは、大臣の失言を理由に「辞職しないと審議には応じられない」と言って審議をボイコットしてみたり、そのくせ採決の時間になると押し寄せて議長からマイクを奪おうとしてみたり、といったことになっている。これは攻防だろうか。いや、単に駄々っ子が暴れ、場を壊しているだけではないのか。

 

彼らは「国民」を無視している。国民は、彼らに政治を行ってもらうことを期待して票を投じ、税金も払っているのだ。それを完全な自分たちの都合でサボり、しかもそれを政府など他人のせいにする。あいつが悪いからオレはサボるんだ、という理屈を、なるほどそれは相手が悪い、などと見る人間がいると本気で思っているのだろうか。

 

などと考えているが、テレビなどでは「これは大臣が辞職しないと」といった訳知り顔の街頭インタビューが登場したりする。テレビも一連のこうした流れを「茶番」ではなく「攻防」として取り上げるあたり、しっかりと野党に付き合ってあげていて優しいものだと思う。

 

本来野党が行うべきは、与党が進めようとしている政策に、対案もしくは修正案を提示し、議論を重ねてより良い方向性へ持っていく、あるいは落とし所を探るということではないのか。しかし、今は政府が何をやっても「戦争法案だ」「国民無視の強行採決だ」と、頭から全てを否定した上で議論にも応じない。ただ相手を悪者だと言うことだけに集中している。

 

彼らにどういう意図があってあのようなことを続けているのか、私にはちょっとわからない。本来なら、野党は支持率を回復して政権交代を実現させたいはずである。であれば、ただただ仕事をサボってがなり立て、他人の足を引っ張る事をアピールするような輩が世間にどう思われるかなどわかりきっているのだから、いい加減愚行をやめ政治の仕事をすればよいのだ。

 

それが出来ないのはなぜなのか。理由が思いつかない。対案を出すだけの知見がないからだろうか。それは由々しき問題だ。それともあのように振る舞っている方が楽だからだろうか。やっぱりサボりだ。あるいは、どういうわけか心の底からあのふるまいが日本のためになると信じてしまっているのだろうか。

 

いずれを考えても、もう頼むから辞めてくれないかとしか言えない。政治の世界というとつい特殊な力学の働く何かのように思いがちだが、冷静に考えればそんなことがいくらもあるわけはない。仕事をするかしないかが問題だ。自分の職場に、提案も仕事もせず、そのくせ他人の提案はレッテルを付けて全て否定しつづけ、意見が通らないと会社を休む。こんな人間がいたら「様々な人間がいてこその組織だからね」って、ならないだろう。それを「政治の世界とはこういうものなのだろうな」などと、都合よく分かってやる必要などまったくない。たまに「通」とされる評論家がこういうことを前提にした上で、このまま審議拒否が続くと国会日程が云々などと言っているが、本当に愚かなことをするのはやめてもらいたい。ちゃんと「サボタージュが続くと」と言え。政治家を甘やかすな。

www.huffingtonpost.jp

 

リベラリストが、というくくり方をすることに躊躇する。おそらく本来の「リベラル」という言葉は、保守的な考え方の人間は無視していい、人格ごと否定してよく話し合ってやる余地などない、というような考え方のものではないだろう。

 

なので記事中で言う「リベラル層」は、本当はそんないいものではなく、やはり「絶対に自分たちの方が正しいのだから異なることを言う人間は追い出したい」という考え方の集団、とでも思うのが自然に感じる。

 

差別だとレッテルさえ貼れば相手を沈黙させられるからと好き放題やっているうちに、相手が人間だということを忘れてしまったのかもしれない。ひどい言いようだが、彼らの「憎い政治家」や「公的権力」に対するやりようを見ていると、そうとしか思えないのだ。

 

アメリカではトランプ氏であり日本では安倍総理大臣がその役どころとなっているが、リベラルでございます、と公言している人たちの彼らの叩きっぷりは常軌を逸している。そのことに気づいてもいない。やることなすことすべて批判し、「戦争への道」に繋げる。そうしたものがかろうじてまっとうな批判、だとして。顔にちょび髭をつけてヒトラーに模してみたり(実際、彼らほど手軽にヒトラーをネタにさせてもらってる人はいないだろう。お礼でもしたらどうか)、罵詈雑言の嵐を浴びせている。

 

言うまでもないが総理大臣も大統領も人間だ。しかし、彼らはどうも「あれは人間であって人間でない」と考えている節がある。

 

沖縄のヘリポート建設現場が騒動のままだが、「土人」という言葉について、「一部の過激な活動家が迷惑をかけていることもあるかもしれないが、沖縄の意思は無視されるべきではなく、例え末端の機動隊員であろうと公的権力を背負っている人間はそのことを自覚しなければならない」と批判している方がいた。

 

これも、「一部の過激な活動家」は人間としてみなしているが、「公的権力を担う機動隊員」は人間である前に権力そのものだ、という考え方をしているのだろうと思う。

 

大阪から沖縄まで出張させられ、わけのわからない罵詈雑言を浴びせられ続け暴力も振るわれながら、一言たりとも反抗的な言葉を発しても暴力もしてはならず、さりとて場を維持しなければならない。・・・私がこんな仕事をさせられたらすぐに根を上げるだろう。

 

私にとっては、活動家だろうが総理大臣だろうが機動隊員だろうが、まずその人は「一人の人間」なので、いったいどういう気持ちでその発言をしたのか、背景にどんな環境があったのかに興味を持つ。しかし、どうもリベラル自称者は、「権力側」となっただけで相手を人間としては見られなくなるようだ。とにかく権力となると人格を喪失した悪魔のように感じているのだろうか。

 

リンクの記事では、リベラル層の側が「トランプ支持者は信用できない」と言い放ち、コミュニケーションを拒絶しているという。そんな彼らが「アメリカは深刻な分断に陥っている」と懸念を表明するというのはお笑い草ではないか。北朝鮮のマネでもしたくなったのだろうか。

 

今こうして巻き起こっている「正義を気取ったリベラリストたちが化けの皮をはがされ、単に自称正義を振りかざして他人を屈服させてきた迷惑な人たちだった」という流れは、今後続くだろうか。その中で我こそはリベラリストと考えてきた人たちはどうするのだろうか。私だったら……相手を人間として見ないで上から批判を続けていたことを反省する。が、ここまでやってきちゃった人は今更カッコ悪くて転向できないだろうか。最後まで自分だけが正義、世界は暗黒に包まれていくと言いながら逃げを打つか。それもまた迷惑な話だ。そちらはどうか知らないが、こちらは一応あなた方のことを血の通った人間だと思っているのだ。つまらない意地を張らないで反省して相手を人間として見てみてはどうか。

「セメント樽の中の手紙」という小説がある。いわゆるプロレタリア文学というやつで、教科書で読んだ人も多いと思う。


主人公はセメントの粉をかき混ぜる機械に投入する仕事をしている。鼻がセメントでごわごわになりながら作業する中、セメントの入った樽の中に手紙も入っているのを見つける。帰宅して読むと、恋人をセメント工場の事故で失った女性からの、悲痛な思いが書かれていた。主人公は酒をあおり「へべれけに酔っ払いてぇなあ、そうして何もかもぶち壊してしまいてぇな」とぼやく。


プロレタリア文学、と言っても、この話の中に労働者の権利を守ろうといったスローガンは出てこない。かすかに読み取れるのは、手紙の女性が、恋人の身体が混ざり込んでしまったセメントを金持ちの邸宅の床に使ったりしないで欲しい、と書くところくらいだ。


この作品、事故で恋人をなくす女性の気持ちに共鳴するものだが、テーマとして主人公の変化が挙げられる。冒頭の主人公は、鼻毛がセメントだらけになるような劣悪な労働環境で日々を過ごしているが、そのことに疑問を持っているわけでもない様子である。さほど自分が不幸だとも抑圧されているとも自覚していないのだ。


しかし、女性の手紙を読んだ主人公はどうにもならない気持ちになり、酒を飲んで「何もかもぶち壊してしまいてぇ」と怒鳴る。彼は、作品中では「学のない人間」として描かれている。本など読まない、権利意識の低い、世の中はそんなもんだ、とやり過ごしている人間だ。それが他人の話を聞くことで、客観視し「これはおかしい、何かが間違っている」と気づいたのだ。しかし、じゃあどうしたらいいか、など皆目見当もつかない。そんな思いの出口が「何もかもぶち壊したい」なのであろう。


紹介が長くなったが、この主人公の気持ちと同じ状況を感じていた多くの人がトランプ氏に投票をしたのだろうと思う。あのような差別主義者に票を入れるなど考えられない、というように、差別の段階で思考を停止させているようでは、彼らのことを理解は出来ないだろう。それが分断の原因だ。彼らはそのようなことより「何もかもぶち壊したい」なのだ。それも、別にアメリカが焼け野原になればいいとか文字通りのことを言っているのではもちろんない。


本当は平穏に過ごしていたあの時に戻りたい。しかし戻れない。あるいはもともと平穏でもなかった。だったら、とにかく今の状況を変えたい。今のままではダメだとわかっているのなら、「とにかく今のままではなくなるほう」を選択するしかないではないか。


そう考えると、トランプ氏を快く思わなくても彼に票を入れる人の気持ちが何となく想像できる。そこには、「できっこないことを今は放言しているが、本当に大統領になったら出来ないことは出来ないと分かるだろう」とか、「トランプが勝つなどありえないのだろうが、民主党の肝を冷やさせるだけでも意味はある」といった、「トランプに投票してしまう自分の正当化」があったと思う。


トランプ氏がそうしたことまで計算していたかどうかは分からないが、少なくともクリントン氏はそのようなことは想像していなかったようだ。彼女は本来なら現状を維持するなどではなく、トランプに負けじと「とにかく変えるんだ」「これまでのようにはしないのだ」というメッセージを送らなければならなかった。しかしそれはできなかった。戦略ミスもあるが、そもそも彼女の依って立つところが現状維持を目指しているのだから仕方がない。彼女は結局、負けるべくして負けたのだ。

 

「セメント樽の中の手紙」において、主人公のような人が願う何もかもぶち壊したいと願う対象は、つまり「その時の世の中」だったわけである。クリントン氏を支持していた人たちにとっては、彼らがなぜ弱者にも関わらずトランプ氏を選ぼうとしたか、やはり理解は出来ないままなのだろうか。彼らが求めるのは「変化」であって「正義」ではない。いや、この場合は、正義とは変化であったのだ。