仕事もせずブラブラしていた頃、スタインベック怒りの葡萄という作品を読んだことがある。葡萄の怪物に人間が襲わるSF者のようだが全然違っていて、資本家と労働者の闘いを描く物語だった。

 

トラクターなどの機会導入によって効率化が図られた結果、資本家は不要な労働者を切り捨て始めた。主人公はそうして首になった労働者たちとともに職を求めてさまよっていき、最終的にはこの体制を変えるための活動に身を投じていく。そんな感じの話だった。

 

今、なんとも思い起こされる話ではないか。トランプ氏が勝利を得たことの分析が様々な視点でなされているが、有力なものとして不法移民の流入により労働力のコストが下がり、職を奪われることに危機感を持った白人の中間所得層や、すでに職を奪われた白人が、ここまでの政治に大してNOを突きつけた、というものがある。

 

怒りの葡萄ではトラクターが悪者だった。2016年にはそれが移民になった。仕組みは同じようなものだ。資本家がコストカットを図り労働者を切り捨てようとした。その反発が今回の結果なのだと考えれば理解もしやすい。

 

もっとも、移民はトラクターのような機械と違って意思を持ち文化や習慣も持っている。機械のように決まったことしかしないでいてくれるわけではない。そうしたものを持ち込まれる事自体への反感というのもあったことだろう。怒りの矛先が直接移民へ向くケースが多いのはそれではないかと思う。

 

ポリティカル・コレクトネスの行き過ぎに対する反発だ、という意見がある。そして、そう思ってる輩は分かってない、その分これまで一部のマイノリティが深刻な苦労を味わってきたのだ、という理屈を言う。愚かなことだ。トランプ支持者は、単に「差別をしたくてたまらないのにさせてもらえない」などと不満を持っているのではないだろう。現実に生活の不安や苦痛を強いられた結果として、その矛先がマイノリティに向かったりしているのだ。なのにそれを「マイノリティのほうが辛いのだから我慢しておればいいのだ」などと言って、何かことが解決したとても考えるのだろうか。バカではなかろうか。

 

ご飯が食べられないと訴える人に、今までお前が食えていたのは他が食えなかったためだ。だからお前は食えなくていいんだ、と言われて納得するような人はいない。どういう理屈をこねられようが腹は減るのだ。理屈などこねなくていいから、飯を与えるべきだし、それしかないのだ。なのに、愛情だ平等だ人権だという主張は、結局のところ怒りの葡萄の主人公には「助け」はもたらさなかった。

 

ただ自分が正義に溢れた人間だと思いたい輩は上記のようなことを言う。自分が自分に安心するためなどではなく、本当に差別をなくしたい、世の中を良くしたいと考えるのなら、移民やマイノリティを保護するように、不安を感じる白人中間層にもそれを安心させる手を打つべきだ。が、彼らはそういうことは一切言わない。

 

なぜだろう。なぜかは分からないが、邪推はしてしまう。移民がいてくれると助かるのは安い労働力を確保できる資本家ではないか。白人中間層を支援しても、労働コストがかかるだけで資本家のプラスにはならない。

トランプが勝ったことを、意外に思いつつも「でもまあそうか」といった捉え方をしている人が多いのではないかと思う。これを「ショックだ」と騒いでいる人がネット上には見られるが、失礼だがパフォーマンスでなく本気でそうだとしたら、ちょっと見識が浅すぎるのではないかと感じる。トランプ氏が泡沫候補などと言われていたのはかなり序盤で、それからどんどんと大統領への階段を登ってきていた。それをずっと見ていながら、今更何がショックだというのだろう。

 

いろいろな分析がなされているが、要するに「貧すれば鈍する」ということなのではないか。これまで積み上げられてきた「人権」「弱者の保護」といった絶対的に正しいお題目は、その裏付けにどうしても金が必要だ。それが寄付や税金やどういった経路で拠出されるにせよ、それらは元気に働いている人たちから抜かれて弱者に支給される。

 

国という大きなシステムの中で、結局のところ自分が「弱者」にいくら払っているのかが分からないこともあり、「自分の生活が困ってるわけでもないのだから、それで誰かが助かるのならいいことだ」と思える。それは正しいことなのだから。しかし、自分の仕事がなくなったり、あるはそうなるかもしれないという危機感に苛まれる中で、なお「まあいいか」と思うにはそれなりの覚悟がいるだろう。そのような寛容さは誰でも用意できるものではないということだ。

 

トランプ氏は今後どのように動くのだろうか。アメリカがどうなるのかはとてもわからないが、分かるのは、綺麗事を言ったり、絶望や批判を続けることで目立とう、自分が正しい人間であるように見せよう、などという振る舞いをしている人間は、状況が変わればすぐ転ぶということくらいだ。

 

今トランプ批判をしている人たちは、今後弱者保護のために自分の生活もランクダウンすることとなれば、いとも簡単に「他人の人権より自分の人権」を主張することだろう。それは別に不自然なことではない。不自然なのは、人間などそのようなものであるにも関わらず、自分だけは他人のために身体を投げ打つ覚悟でござい、といった態度で正義を振りかざす、その無自覚さであり、不正直さだ。そうだ、私はそれを憎んでいるのだ。

 

トランプ氏に票を投じた人の多くは、そうした憎しみを持っていたと思う。「俺達もひどい目にあうかもしれないが、お前たちの方がもっとひどい目にあうだろう、安全なところから薄っぺらい綺麗事ばかり抜かしやがって、ざまあみろ」という。

 

そうした怒りを招いたことに、そして自分たちがただ「正論」を持っていただけで、別に「多数派の支持」を持っていたわけではないことに、彼らはいい加減気づいただろうか。多くの人が「正論でやり込められることへの辟易」を感じていたことを知っただろうか。知った上で、彼らの気持ちを捉える方向へ動くだろうか。私はきっと無理だと思う。それには彼らは自分の偽善をまず認めなければならないから。クジラは助けたいけど家畜が死ぬのはいいのだ。それを割り切れてしまう人間に何を言っても無駄だ。

 

結果を受け、いち早く絶望して見せている人も多い。彼らは「アメリカ人の少なくとも半分近くが、あのような人物なのを知った上でなおトランプ氏を選んだ」ということの重さをまったく分かっていない。そのような愚かな選択をする人間などは、差別的で頭の悪い連中だから顧みるに値しない、と頭から思い込んでいるからだ。ただ自分をものの分かった人間に見せたいだけだった、という底の浅さが見える対応だ。人権人権と言っても「トランプ氏を支持する人間」には、尊重など不要なのだ。

 内戦状態にある国の戦場カメラマンの写真。子供が被害を受けながら悲しい目で見ている写真に言葉を失う。何か自分にできることはないのか、日本はこれをただ黙って見ているのか。そんな訴えを綴っている人がいた。立派だ。そうしたことをSNSで発信し、か弱い声でも上げていこう。いいことだ。

 

 その1時間後、美味しいコーヒーを楽しんでいる写真が投稿されている。何だこれ、と思う。本人の中では、さっきの「言葉もないショック」は30分程で終了し、美味しいコーヒーを楽しむ時間に切り替わったようだ。便利な感情で恐れ入る。

 

 といっても、人間とはそんなものだ。本当に悲しいことには違いないが、手も目も意思も届かない遠いところの悲しいことを常に抱えていられるほど人間は器用でもないし強くもない。SNSではどうしてもリアルタイムと時系列が異なるから、投稿されたものをあとから見ていくと、どうしても怒った後にすぐ喜んでるように見えたりもする。

 

 だが、そう考えるとSNSであれこれと感情をダダ流しにすること自体、あまり良いことでもないのかもしれない。本人にとって「流れ」があっても、後から投稿を見る側にはその時系列も経緯も存在しないのだから。


 ところで、こうした衝撃的な写真というのはすぐ拡散する。上記のような人がすぐ嘆きのコメントを加えて広がっていく。子供や動物は強い。彼も、ただの大人の男が悲しい目をしている写真ではそれほどテンションも上がらなかっただろう。

 

 それも無理からぬ事ではあるが、あまり自覚せず「言葉を失う」といったコメントを書く人の気持ちが私にはちょっとわからない。端的に言って「自覚しないのかな」と思う。

 

 なるほど子供がかわいそうだ。では大人なら別にいいのか。誰だってだめじゃないか。なのに、戦っている大人たちについては特に関心を持つでもなく、子供だということで何枚か上乗せして感情的になっている自分について、アンフェアだな、と感じたり恥ずかしくなったりしないか。

 

 それはないとしても、「言葉を失う」とか「反吐が出る」といった、実際にはしゃべってるじゃん、と思われるコメントを、以下に自分がこのことに心を痛めているか、ということを訴えるためにわざわざPCなりを開いてボタンを押して投稿している、そういう自身を俯瞰で眺めて勘違い感を自覚してしまう、ということはないのだろうか。ないか。あったらできないのか。

レイシズムは良くないことだ。それは思う。人種という本人に起因しないことを条件に差別されたのではたまらない。それはいい。

 

言論の自由を掲げる人たちの多くが、レイシズムについて非寛容だ。反対するのは当然だ。あっている。が、レイシズムを肯定する言動を発する人に対して、圧力をかけて講演をとりやめさせるだとか、暴力や脅しを行うとか、どういうわけか言論の自由を掲げている割に、レイシズム軍国主義者に関しては人権はないものとして取り扱うことが彼らの中では当たり前のようではないか。

 

その矛盾を本人たちも当然理解しているものと思うが、と言ってこの矛盾を解きほぐすような理屈をネットで見かけることは今までの所ない。たいていは「このようなレイシストの言動を取り上げて新聞に乗せるなどけしからん」「社会に出してはいけない人間」といった、社会からの抹殺を推奨しておいて、疑問を提示する相手はブロックする、という形になっている。

 

私がわからないのは、自身こそが自分の主張に反しているはずの「言論への弾圧」「自分と違う主張をする人とのコミュニケーションの拒否」「特定の人間に対する人権の剥奪肯定」といった事をしながら、それについて特に問題とも思っていないらしいことだ。一体どうやって自己正当化しているのだろうか。

 

先に記した沖縄の人も、警官の土人発言にひどく傷つけられた、ショックだったと言う。私は「土人」が沖縄県民全体を指したものであるとはとても思えないが、当の本人がショックと思ってしまうと言われてしまえば仕方がない。仕方がないが、現場で過激な活動(というよりテロに近い)をしているような人間が沖縄県民の全体像とは思えませんが、という指摘には「一部過激な人もいるがこれが沖縄の総意だ」といったことをおっしゃり、結局本土は沖縄をなんだと思ってるんだという理屈になってしまう。

 

そういうあなたは、沖縄に少数だとしても存在している基地賛成派をどう考えているのか。基地の地元住民がむしろ活動家に検問まで勝手にされて迷惑していることも、「一部の過激な活動家の行い」だから仕方がないことだと考えるのか。沖縄における親本土派などは少数でありそのような言動は抹殺して良いというのか。少数の意見を聞けというのがあなたの主張ではなかったのか。といった自己矛盾を、一体どうして正当化出来ているのか。本当はこれを聞きたくて仕方がないのだが、「ショックだ」と言われてはもうどうにもならない。ショックでしたか。そうですか。

 

こういったことは、すでにちゃんとした正当化するための理屈があるのだろう、と個人的には思っている。そうでなければ、どうしてあんなに堂々と矛盾を抱えた主張ができるものか。しかし、私が調べないのが悪いのか、その理屈というものをまだ見たことがない。あれだけの数の人がいるのだから、バカな私でも分かるシンプルな理屈というものがあってしかるべきだ。それはなんなのだ。是非教えてくれないか。私だって自分の抱えている矛盾を正当化していって、後ろめたくない人生を送りたい。そのロジック、教えてくれ。

私は沖縄の人が怒りをぶつける「本土」の中にいる、一地方の人間だ。自衛隊の基地の側で轟音の中育ったが、別にひどい目にあったという自覚もないし、なんということもなく暮らした。東京へのあこがれはゼロではなかったが、それほどでもなく、それは今もあまり変わらない。地方の人間としては、過疎化が心配ではあるけれど、それを都会に怒ってみても仕方がない。本質的にはそれはその地方自身の問題だからだ。

 

沖縄は私の育った地方に比べたら、それは複雑な歴史を歩んできただろう。しかし思う。今沖縄にいる世代の人々は、その歴史のすべてを体験し「ひどい目にあってきた」わけではあるまい。何を言う、米軍の暴行事件があったではないか、と言うかもしれない。それも思う。なるほど沖縄県内で米兵の事件があった。が、沖縄が10km四方の土地しかないような狭いところなら分かるが、沖縄だって県だ。その県のすべての人々が、米兵の暴行にビクビクしながらの暮らしを余儀なくされているのならそれは問題だが、沖縄でもなんでもないところのほうが多かろう。なのにどうして「沖縄全体が虐げられている」ことの根拠がその事件になるのだ。虐げられたのはその人個人だ。基地がなければ事件はなかった?基地のない本土でも暴行事件は起きている。米兵が暴行しないと生きていけないような人種だと言うならそうかもしれないが、そんなわけはない。それとも、米兵はそういう人種だと差別したいのだろうか。

 

沖縄の人は「本土の人は沖縄の気持ちを考えたことがあるのか」という。悪いがそれほどないのだろう。あるにはあるが、本質的にピッタリ沖縄の気持ちを分かるなど無理だからだ。一方思う。そのように本土を責め立てるあなた方は、本土に暮らす普通の人たちの気持ちを考えたことがあるのか、と。わかり合いたい、と思っているなら考えてもいいことだが、考えている人を見たことはない。彼らの言う「本土」イメージは、どうも東京などの都会でぬくぬくと暮らすお金持ちの享楽的な人たちなのか。沖縄以外には地方はないとでも思っているのか。

 

沖縄以外にも「地方」はたくさんあり、会津などのように犠牲を強いられた地方もたくさんある。そうやって日本は出来てきている。沖縄だけ特に特別だという理由が「直近」以外にあるだろうか。その「直近」にしても、今いる世代は直接その影響を受けたのだろうか。

 

「沖縄の気持ちを分かれ」という主張に、そもそも「わかり合う」という希望はないだろう。あるのは一方的に理解をしろ、沖縄がそちらを理解する必要はない。それだけだ。悪いが、ただ怒りをぶつけ続ける人たちと付き合うほど、こちらには忍耐力はないのだ。

少し前にやっていた「しくじり先生」で、杉田かおるがしくじりを紹介していた。その中に「勝手に事務所を移籍した」といったことがあり、スタジオみんなが「それはだめでしょ」と引いていた。

 

とんねるずかな、と勝手に思ってるが、テレビ業界の常識や掟をテレビ業界の人たちがテレビの中で披露する状況というのをちらほら見かける。なんだよ!と思ってる。

 

テレビの中でつい「それはほんとそうだよ!」と一瞬だけ思いかけるが、勤めていた会社を辞めて同業の別会社に転職する。起業する。何が問題がある?何も問題なんかない。おかしいのはテレビの中の方で、それを「しくじり」として紹介するのも、「しくじってるなあ」と受け止めてるのも、ひっくるめてそもそもがおかしい。

 

おかしいのに、「ギョーカイ通」みたいなことから、むしろそういう普通の世の中と違うことを知っていることが通であるとか、そんな流れの果てが今の状況なんだろうか。

 

とにかく。おかしいことが堂々とテレビで流れていて、それをこっちも「そんなもんかー」と、なぜか納得しながら見てしまってる。そんなことはやっぱりおかしい。こちらには子供の頃から「テレビで言ってることは全部正しくて受け入れておけばいい」体制ができていて、今私はそれまずいのかな、と思い始めている。